天地人 第41話 「上杉の生きる道」

今回のあらすじ


・兼続が提案した米沢藩の新規開墾を『ザ・上田衆』の一人・桜井吉晴が行いました

・兼続の娘・ゴーオンイエローは仮面ライダー1号と結婚する事になりました

・子供店長の人気を利用して過去の回想を繋げホームドラマを仕上げました

・「父を疑ってはならぬ」の言葉に兼続は父・惣右衛門と子・竹松に感動しました

・回想=死亡フラグを使ってキッチリ踊りきった惣右衛門は静かに亡くなりました




今回ふと思った事

惣右衛門の死よりも
桶からこぼれ落ちたドジョウが可哀相で泣けましたT▽T




見事なまでにホームドラマに仕上げてきました。


あの時点(まだ与六だった頃)まではまだヨカッタんですけどねぇ(; ̄∀ ̄)



予想通り書く事がないですね┐(´ー`)┌









さて、今回は久々にガッツリと(というか、2日前から作成してたんですけど)


直江家の系譜と江戸時代以降の直江家に関してあれこれ。


まず、江戸時代以前の頃
兼続は次女を色部長実の子・光長に嫁がせ
本庄繁長の子を婿養子にし長女を嫁がせています。
その子は直江与次郎と名乗ったそうです。

ドラマでは色部光長は兼続の妹を娶っていましたが
これはそういう説もあるそうです。

とりあえず、ここでは色部光長の妻は兼続の娘という事で話を進めます。



一方、兼続は妹を
須田満親の嫡男・満胤に嫁がせています。



     須
     田
     満
     親   ┌───────────┐
     │   │           │
  ┌──┼─────┐   本     直     色
  │  │   │ │   庄     江     部
  │  │   │ 娘━━━繁     兼     長
  │  │   │     長     続     実
  長  満━━━妹     │     │     │
  義  胤         │     ├──┐  │
               直     │  │  │
               江     │  │  │
               与━━━━━娘  娘━━光
               次           長
               郎




その後、兼続に嫡男・景明が生まれると
与次郎は妻と離縁し、実家に戻り本庄長房と名乗ります。

また、須田満胤は仕事で不備をしてしまい、改易され
家督は弟の長義が継ぎます。

満胤の妻とその一子・満統は本庄繁長の下を頼ったそうです。



     須
     田
     満
     親   ┌──────────────┐
     │   │              │
  ┌──┼─────┐   本        直     色
  │  │   │ │   庄        江     部
  │  │   │ 娘━━━繁        兼     長
  │  │   │     長        続     実
  長  満━┯━妹     │        │     │
  義  胤 │       │     ┌──┼──┐  │
       │       │     │  │  │  │
       │       │     │  │  │  │
       満       長     娘  景  娘━━光
       統       房        明     長



この系譜から分かるように
兼続は揚北衆の本庄家や色部家、信濃衆の須田家と
上杉家にとっていわば外様に当たる家臣と婚姻関係を結んでいます。


江戸時代における家老につける上士の大半は
揚北衆や信濃衆、蘆名家の者と結構外部、外様出身者が目立ちます。



これは上杉景勝時代
御館の乱で家臣同士が争った事もあって
景勝が上杉家での基盤を安定させるために
兼続を中心とした中央集権化を図っています。

その中で上杉家の一門衆だった上条政繁など
上杉家の譜代の家臣が出奔してます。

そうしたトコロもあって
外様だった者達が中央を支持する事で
上杉家の中央に入りやすい環境があったのだと思われます。







江戸時代になると兼続は直江重光と名を改めています。

樋口家では兼続の父親・兼豊のように
代々樋口家では「兼」の字を受け継いでいたと思われます。


今回の改名に関しては樋口家のご先祖様の名前が「兼光」なので
「光」の文字を取ったというとこでしょうね。

で、「重」に関しては
兼続の母の父親が泉重歳という説があるので
そこから取ったのではないかと思います。





それから、本多政重を養子にした件ですが
この本多政重という名は実は米沢藩を出奔してから名乗ったものであり
最初は倉橋家の養子になっていたのですが、徳川家中で問題を起こして出奔
関ヶ原の戦い前は大谷吉継、宇喜多秀家
関ヶ原の戦い後は福島正則、前田利長と他家を渡り歩きます。

そうして他家を渡り歩けたのも
政重は武勇に優れていたので、諸大名からお誘いが多かったようです。

この頃の政重は「正木左兵衛」と名乗っていたようです。



なのでこの時点で「本多政重」という名前が出てくるのは
あり得ないという事です。



そして1604年に政重は直江家の婿養子になると「直江勝吉」と名乗ります。



     須
     田
     満
     親   ┌──────────────┐
     │   │              │
  ┌──┼─────┐   本  本     直     色
  │  │   │ │   庄  多     江     部
  │  │   │ 娘━━━繁  正     重     長
  │  │   │     長  信     光     実
  長  満━┯━妹     │  │     │     │
  義  胤 │       │  │  ┌──┼──┐  │
       │       │  直  │  │  │  │
       │       │  江  │  │  │  │
       満       長  勝━━娘  景  娘━━光
       統       房  吉     明     長




この養子縁組に対して
兼続の弟・大国実頼は怒って出奔して高野山に篭る訳ですね。

そうして、翌年の1605年に勝吉の妻が病死すると
1609年に兼続は大国実頼の娘・阿虎を自分の養女にして勝吉に嫁がせます。



     須
     田
     満
     親   ┌───────────┬──┐
     │   │           │  │
  ┌──┼─────┐   本  本  大  直     色
  │  │   │ │   庄  多  国  江     部
  │  │   │ 娘━━━繁  正  実  重     長
  │  │   │     長  信  頼  光     実
  長  満━┯━妹     │  │  │  │     │
  義  胤 │       │  │  │  ├──┐  │
       │       │  直  │  │  │  │
       │       │  江  │  │  │  │
       満       長  勝━━阿  景  娘━━光
       統       房  吉  虎  明     長



この1609年に本多正信の仲立ちで
重光の子・景明に徳川家譜代大名・戸田家から妻を貰い受けてたり
正信の取り成しで米沢藩の10万石分の役儀が免除になっている事から



政重と阿虎との婚姻は兼続にとってというか米沢藩にとって
どうしてもこの養子縁組を壊す事はできなかったというとこでしょう。

この頃から直江勝吉は「本多政重」と名乗ってたそうです。






ちなみにこの政重という名について
あくまで自分の考えでは「重」の文字は
養父・兼続の後の名「重光」からとったのかなと思ったりしたんですが
どうもこれは違うのかなって思いました。


その理由として簡単に父・正信には弟・正重がいた事です。




            本
            多
            家
            │
      ┌─────┤
      │     │
      正     正
      重     信
            │
        ┌───┼───┐
        │   │   │
        忠   政   正
        純   重   純



本多正信の弟・正重は
兄と違って武勇に優れていて
三方ヶ原の戦いでは殿も務めていたりして
織田信長をして「海道一の勇士」と称された槍の遣い手だったのですが

それから間もなく徳川家を出奔して

滝川一益、前田利家、蒲生氏郷と仕えています。

そして氏郷が亡くなった後の蒲生家で御家騒動を受けて
正重は蒲生家を去り、徳川家に帰参しています。


政重は武勇に優れ、それで他家を渡り歩く
父・正信の意を受けて諸大名の動静を探っていたとも言われています

これは叔父・正重にも同じような事が言われていましたし

もしかしたら叔父・正重がしていたから
政重の行動もそれに習っての事かもしれませんし

たまたま諜報とは関係なく偶然だとしても
これまでの自分の生き方が叔父・正重と同じように重なっている事に対して
政重は「政重」という名にしたのかもしれません。






それから2年後の1611年に本多政重は突如上杉家を出奔
1612年に本多政重はかつて仕えていた前田家に帰参し
前田家から3万石を拝領します。


この時、妻・阿虎と上杉家家臣の多くが一緒に政重と共に出奔し
加賀前田家に仕えています。

この中には兼続の妻の父・景綱の実弟が開祖となる篠井家や
兼続の養子だった本庄長房も含まれていたみたいです。


これにはなんだかんだ言っても
上杉家の米沢藩は30万石で藩士は6千人

単純計算で一人当たり50石ですからね。


それが政重が加賀前田家で3万石も拝領するのですからね。
そりゃ食い扶持がいい方に決まってます ̄▽ ̄



政重が加賀前田家に仕えた後も兼続とは親交があったそうです。



なので、個人的には
米沢藩での藩士達の食い扶持を増やすため
政重は何人かの米沢藩士を伴って出奔したのかと思われます。


それと、30万石の上杉家を掌握するよりも
100万石の前田家の方が都合がよいと本多正信は考えて
政重を上杉家から出奔させたのかもしれませんし


もしくは本多政重は父・正信の言いなりになって
直江家の後継となる事に反発して景明に直江家を継がせるために
出奔したのかもしれません。





また、直江家は兼続の代で断絶となりましたが


そもそも直江家が断絶になったのは
景明が病死し、兼続の養子であった
政重、長房が共に出奔していたためなんですが

兼続の妻が亡くなると米沢藩二代目藩主・定勝は
長房を米沢藩に呼び戻しております。


これに関しては景明に家督を譲るための計画ではないかと思われるのですが


一方で、後に起きた事を振り返ると直江家を断絶させるために
長房も政重と共に出奔したのではないかと思ってしまいます。

そう考えてしまうと景明の死は
意図的なものだという前提が不可欠なんですけどね(; ̄∀ ̄)






まぁそれで (つ´∀`)つ おいといて

直江家の断絶に関しては
これは兼続が直江家の知行を返上する事で少しでも上杉家の
財政を助けるためという説がありますが

直江兼続が上杉家をこんな風にした元凶であるために
上杉家家中では徹底的に嫌われたと考えられなくもないです。



ただ、大国家は実頼が出奔して後に樋口家が大国家を再興したり
色部家は戊辰戦争後、戦犯となり家名断絶するのですが
明治の時代に色部家は再興されていますからね。

なので
自分達が見た直江兼続と
米沢藩が見た直江兼続と

その内と外では見え方が違うのかなと思ったりもして。




まぁ自分の中での結論としては

兼続が藩のために、関ヶ原での敗れた罪に対して直江家を再興する道を断ったのか

上杉家中での直江家に対する恨みによる断絶の道なのか

それは妄想で好きな方を選択して下さいってとこです ̄▽ ̄











さて、次回は菊姫の方から
景勝に側室を持たせる提案をさせるという展開のようで。

まぁホームドラマ好きにはもってこいのお話ですね┐(´ー`)┌

これに関してはまぁ百歩譲ってOKとするも
その後の将軍の展開がどうもグダグダな感じになりそうな予感がします。

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