篤姫 第12話 「さらば桜島」

篤姫が薩摩を旅立つ日が近付いている。
そこで父上が家臣を呼んで宴の席を開くと言う。

そこでは「父上」と「母上」も出席される。

しかし、「父上」「母上」であっても
今は身分の壁がそう呼ぶ事を許さない。

「父上」と「母上」もそれを心得ていた。

「父上」と「母上」は
あくまでも臣下の立場をとっていた。

私はこう言った。
「忠剛殿」「お幸殿」と。


それが己の心を寂しくさせる。

己がどんな打ち手になろうとも己の心は碁石のようにはならない。

自らの生き方を変える事が出来ないとこまで来ている事を痛切に感じてしまう。


そんな思いが自分の中でグルグルと回り続ける。

彼女の心に面会してくる家臣の言葉は届かない。


そんな彼女の心を動かす事が出来た人物は今和泉家以外に一人いた。


「今和泉家とはこれからも御昵懇にさせて頂きます。」


肝付尚五郎、その人だった。


篤姫は思わず尚五郎に頭を下げた。

それは上の者の立場である彼女が臣下である尚五郎に頭を下げる事であり
通常であれば「あってはならない事」であった。


そして父は娘に告げた。


篤姫は京に上って、右大臣・近衛家の養女にならなければならない。

将軍の御台所となるには外様大名の娘では文句を言う幕臣達がいるらしい。
それを交わすために将軍家の御台所になるには相応しい家柄にするのが目的らしい。
全ては篤姫を御台所にするために。

そのために篤姫はまた「父」が変わる事になる。


翌日、落ち込んでいる篤姫に客人が御見えになったという。


訝しがる篤姫の前に現れた客人。

それは今和泉家の面々だった。


「四半時(約30分)にございます。」


そう言って幾島は自分と今和泉家の面々が心置きなく語れる場を設けてくれた。



父上様、母上様。

この四半時の間、篤姫は今和泉の人になる。



私はどこにいようとも父上様と母上様の子にございます。


皆の眼が涙でうるむ。

娘は雲の上のお方になってしまった。

いつのまにか会わないうちに遠い存在になってしまった。


でも、そんな娘の成長を見つめる親として


元気にいてくれれば他に申す事はなかった。

二人の願いは娘の元気な姿だったから。

だから、娘には
いつものように自分らしさを忘れずに生きて欲しい―――。




そして旅立ちの日がやってきた。


江戸に向かう駕籠に乗る篤姫。




その頃、「父上」は病床にあった。




篤姫の駕籠が今和泉宅に止まる。





駕籠を開けると今和泉家の面々が平伏していた。




面を上げた「父上」の顔は今まで見た事がない笑顔だった。
そんな自分の様子を察したか直に顔をいつものように戻すと平伏した。



篤姫にはわかっていた。

「父上」の様子がおかしい事に。


そんな自分に出来る事。

それは今和泉家の者達に礼をする事であった。

たとえ、君臣の立場に反する事になろうとも。



そして駕籠はその場を後にする。




その途上、駕籠は進路を変更した。


それは篤姫が尚五郎も知っている「あの場所」だった。



眼前に聳える桜島に向かって篤姫は叫ぶ。

今日まで有り難うございました。
これからも薩摩の皆を御守り下さりませ。




それから篤姫の一向は船に乗り、京都へ向かう。



そこからは今和泉家が治める領地も見えた。




篤姫はそこから母に誓った。

母上、私は己の役割を果たしに参ります。



揺れる船旅に姫を心配する幾島に篤姫は言う。


幾島。私はそなたが嫌いじゃ。

存じておりまする。

故にそなたに誓う。
嫌った者から破ったと笑われたくはない。

薩摩を思うて泣くのはこれが最後じゃ。



しかと承りましてございます。


これが最後じゃ。


そう、篤姫は幾島と自分の涙に誓った。




そして篤姫は生涯、薩摩の地を踏む事はなかった―――。













今回は親子の立場でもう涙が溢れそうでした(T▽T)


そんでもって能の席ではみんなして余所見ばかりしてましたけどね(笑)



お近さんに関してなんですが、どうもやはり
尚五郎の事が好きみたいなとこがあるようですね。


でも、彼女は自分から思いを伝える事が出来ないタイプなんでしょうね。
自分の言いたい事をはっきり言える篤姫とは違って。


今後の展開も考えるとこの辺りもポイントになってくるみたいですね。



それから篤姫と忠教との対面はなかなか面白かったです。


篤姫が将棋ではなく囲碁を好んだのは
将棋だと序列や身分があるけれど
囲碁だと皆一人一人が同じ立場にある。

そして自分の手によって、その碁石の生き方も局面もガラリと変わっていく。

そこには「自由」がある。

石には幾多の生きる場所がある。
それが自分には羨ましい。

そして、そんな石のひとつひとつが愛おしくなる。



そんな篤姫の言葉に兄とは距離を置いていた忠教の心も和んだみたいですね。



それから以前にも触れましたが
朱子学は君臣の立場をわきまえる部分が強かったので
こうした宴の席であっても、かつての友や親に思いを寄せるような
行動さえ取る事も許されなかったのでしょう。
「自分の心のままに生きる」事が出来ない。


ここが篤姫も今和泉家も歯がゆかった事でしょうね。











さて、今回は朱子学の派生でありながら
結果的に朱子学に相反する物に変化していった陽明学についてアレコレ。



陽明学は元々朱子学から派生したもので

以前、朱子学に関してはこのように述べました
君臣・親子の上下関係の秩序の部分が国の体制を強化するために
朱子学の考えが強調されるあまり
朱子学が本来持っていた道徳の部分が失われていったようです。

そのために朱子学の徒であった王陽明なる人物が
道徳倫理を再生しようと考え出した学問だそうです。

まず、陽明学の根幹は「心即理」

これは心と理は一体であるという考え方です。

人は生まれた時から心と理は一体である。
その心が私欲とかで雲っていなければ心本来のあり方は理と合致すると。

ここは「理」と「心」を切り離して考える朱子学とは違うものです。

また、朱子学では学問の研鑚と心の修行により聖人になれると考えていたようですが
陽明学では全ての人が本来は聖人であると考えていたようですね。

そこで己の中で「致良知」―自分がそれを曇りなき心で正しいと知っていれば
それが聖人の証であるとしたようです。

つまりは「性善説」からこの思想は来ているようですね。

となると朱子学は己を律する部分が大きいので「性悪説」から来ているようなとこはあります。


それから「知行合一」です。
王陽明が当初考えていた「知行合一」というのは
「知」=学問と「行」=経験は一体であって決して別々ではないというものだそうです。
つまり学問と経験は両方が同時に伴うものであるという考えだそうです。

即ち、「知っているのに行わないのは未だに知らない事と同じである」
という事になるそうです。


この陽明学に関して
日本での祖と言われた人物は「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹だそうです。




ただねぇ、この陽明学の思想である「心即理」は見方を考えると
「人は生まれながらにして善人である」という考えを根幹としているために
これだと人の心が持つ欲望をそのまま肯定してしまうと解釈される事になります。

そこから更に解釈すると
国の方針に対して国が間違っているのであれば
「己の心の正義によって」それを正さなければならない。

ここから革命運動や国家体制に反発する思想となると考えたようです。



なにしろ「己の心の正義によって」
ここが当時の日本の人々の心を強くひきつけたようです。

つまりは
「己の心のままに生きる」事が出来ると解釈できる訳ですからね。

それは即ち
今の幕府の身分制度を否定してしまう事になりますからね。



事実、このように考えた人も多かったらしく
大塩平八郎の乱で有名な大塩平八郎もまた陽明学を学んでいました。


大塩の学識はかなりのもので陽明学においては
「東の一斎、西の大塩」と評されたそうです。


でもって、この「東の一斎」と呼ばれたのが佐藤一斎です。
彼は朱子学を学んで後に陽明学にも見識を広げ
周囲から「陽朱陰王」と呼ばれたそうです。


彼の門下生は6000人とも言われ
彼から育った弟子には佐久間象山、山田方谷がおられます。

二人の弟子には
吉田松陰、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之等々
明治維新の原動力となった人物がたくさんおられます。

この事から見ても陽明学は明治維新には欠かせない思想だったという事になります。





・・・・・思い出した(; ̄∀ ̄)



・・・なるほどね。



中江藤樹に話は戻りますが
この中江藤樹の本当の名は与右衛門だそうで米子藩の藩士として生まれた後に
米子藩の藩主が伊予大洲藩に国替えした際に共に大洲藩に向かったそうです。

それから27歳で脱藩して京に潜伏して近江で塾を開いたそうです。
その屋敷に藤の木があったことから「藤樹」と呼ばれるようになったそうです。

彼の思想は身分の上下を越えた平等思想に特徴があり後に「近江聖人」と呼ばれたそうです。

それから中江藤樹は岡山藩に閑谷学校の先生になってくれって
依頼を受けたそうなんですが断ったそうです。



ちなみに大洲藩で中江藤樹が築いた「知行合一」の精神は
後にその地での学校の伝統的教条と校風に生かされております。


それが大洲高等学校でして。
そうそう、この大洲高等学校には中江藤樹が住んでいた家を
復元したものが学校の敷地の中にあるんですよ。






これ、自分の出身校だ(; ̄∀ ̄)ゞ






たしかに校内に邸宅はあったんですけど
今の今まで忘れてました(; ̄∀ ̄)ゞ


でもって「藤樹祭」では体育祭の部と文化祭の部があって
体育祭では「藤朋」「豫章」「肱龍」「聖炎」のチームに分かれて
対決したりするんですよ。

文化祭は仮想コンテストとかがあるんですけどね。

このチーム名は「肱龍」と「聖炎」までは覚えていたんですが
残り2つが忘れてしまってて

大洲高等学校で先生をしている弟に電話をして確認しました(; ̄∀ ̄)ゞ

その後、弟君がちょっとした話を教えてくれました。


先程、触れた閑谷学校というのは岡山藩が作った世界で最古の庶民学校だそうで
他藩の者でも学ぶ事が出来たそうです。

そして、岡山藩の藩主が国替えにあってからも
この学校が存続するような体制を作っていたそうです。

また、この学校では頼山陽や前述の山田方谷を招いていたりしたそうです。

そして、この学校には日本に2本しかないという
カイノキがあるそうで(弟談なので確認してない(; ̄∀ ̄)ゞ)
うちの弟君が学校の研修かなんかでこの学校に行った時に
カイノキの苗をもらったそうです。


で、大洲高校に植えたらしいんですが既に枯れてるらしいです(; ̄ノ∇ ̄)











さて、大分話は昔話&弟の世間話になってしまい脱線してしまいましたが(滝汗)








高校時代に学校の教えとしてあった
「知行合一」って言葉はよく覚えています。



自分はただクチばかりじゃなくて
言う以上は行動しなければいかんのよって思うとこがあるようで
それがあまりにも突飛で親達を心配させるような事をたくさんしたそうなんですけど。
(本人にその自覚は全くなし)

というか、私の場合は
思ったら覚えているうちにしないと忘れてしまうからってとこがあるんですけど(; ̄∀ ̄)ゞ


思い立ったら即行動。

そういう自分の思想の根幹は「知行合一」に当てはまるのかもしれません。


「陽明学」の考えは意外にも自分の身近な場所で自分は学んでいたようです。






さぁ次回はかなり楽しみな展開になってきました。


次回より、篤姫は歴史の表舞台に足を踏み入れるという事になるんでしょうね。

そこは様々な方々の思惑が入り乱れる伏魔殿――江戸。
魔人の一人や二人がいてもおかしくありませんね(笑)

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