八重の桜 第30話 「再起への道」
会津戦争から半年が過ぎた
会津藩が降伏した後
最後に唯一つ徹底抗戦を貫いていた庄内藩も降伏
これより東北の地は新政府軍によって制圧された
容保親子は助命を許された
山川大蔵らの容保の助命嘆願を行ったとも
萱野権兵衛が自ら此度の合戦の首謀者であり
容保公には何ら罪はないと新政府に主張したとも言われている
その是非はともかくとして
萱野権兵衛はこの戦の責めを負い切腹した
その同じ日
幕府の残党が立て篭もる五稜郭が陥落
これによって新政府への抵抗勢力は一掃された
新政府軍の処断により
東北諸藩の多くはその石高を減封(石高を減らす事)されていた
減封・転封された諸藩
減封を免れた藩もあったが
その藩では金銭を新政府軍に献納したと言う
転封された藩の多くは旧領であったり
西国の地であったりとしたのだが
会津は更に寒さの厳しい地で
石高も大きく減らされた形での転封は
最早島流し同然であると考えるのもやむを得ないものであった
山川大蔵は藩の名だけは
自分らの手でつけることを許された
そこで彼が名付けたのが「斗南」
「北斗以南皆帝州」という詩文からとった
我らは朝敵ではなく帝の民であるという意味だと言う
これが今の会津の精一杯だった
八重はみねと共に
米沢藩で反物の行商を行なっていた
かつて川崎尚之助や八重の下で砲術を学んでいた
米沢藩士・内藤新一郎の申し出により彼の屋敷の離れに身を寄せていた
米沢藩は領地を奪われ
武士達の暮らしは厳しくなったが
領地を全て奪われた会津の比ではなかった
皆々こうして何かしらの縁者を頼ったり
農村に住まいを借りるなどして日々の暮らしを長らえていた
その八重は夜になるとうなされる事が度々あった
あの合戦の日々
夜襲をした記憶
敵の銃弾が飛び交っていたあの日々
尚之助は何故私を生かしたのか?
目が覚めると傍にいたみねを抱きしめた
「さすけねぇ
もう弾は飛んでこねぇ」
母・佐久の言葉で我に返る
「八重
さすけねぇか?」
「さすけねぇ」
今でいうところの心的外傷後ストレス障害
PTSDであったであろう
その行商の中で八重は一人の女性に声をかけられた
その女性は千代と言い
八重と同じ会津の者であった
会津訛りの方がいると思い声をかけたらしい
そして八重を見て驚いていた
千代ら会津の女性にとって
鉄砲隊を率いて戦った八重を知らぬ者はいなかった
八重は千代が働いている
田村屋の下を訪ねてきた
千代は会津戦争で夫を失っていた
「息子にも敵を討ってもらわねばなんねぇ
今度戦が始まったら私も八重さんのように
鉄砲を撃って一人でも多くの敵を倒す
私は夫の仇を討ちでぇ
それまでは恥を忍んでも生き抜いてこの子を育てる
息子を強ぇ武士に育てて恨みを晴らす
こうしている間も憎い敵はのうのうと生きている
強くなって父の仇を討ち恨みを晴らす
薩長に一矢報いんだ」
そこに田村屋がやってきた
「毎日毎日敵を討ての
恥をそそげのと同じ繰り言を並べて辛気臭くてかなわぬわ
会津会津と念仏のように唱えてるけども
そだな国はもうとっくに潰れてなくなった
いつまで武士の奥方面をしている!
わしが拾って囲い者にしてやったんだべ
食い詰めて首くくるしかなかった賊徒の親子が!」
田村屋の言葉に
八重は千代が言う「恥を忍んで」という意味がわかった
更に田村屋は言葉を続けた
それは千代ら会津の者達を罵る言葉だった
八重は田村屋を叩き伏せ
思わず殺そうとしたその時
千代が必死になって田村屋を庇った
「やめてくなんしょ!
許してくなんしょ!
この人に何かあったら息子は生きていけねぇ!」
八重はそれ以上手をあげる事はできなかった
別れ際
千代は己がこんな事をしてまでも生きながらえている自分が情けなかった
「今は生き抜く事が戦だ
生きていればいつか会津に帰れる
それを支えに生きていくべ」
そう言って八重は千代を励ますように
己を励ますようにしてその場を後にした
その年の秋
山川大蔵が八重の下を訪ねてきた
会津の再興がかなった
転封で石高も大きく減らされたが
御家はどうにか存続できた
そこで大蔵は八重に
御家再建のために力を貸してほしいと
斗南に来てほしいとして
こうして足を運んだのであった
それに対して八重の返答は
しばらくはこの地に留まるというものであった
「わだすは怖ぇのです
この前会津を侮辱した人をもうちっとで殺めてしまうところでした
お城に上って戦った時
一人でも多くの敵を倒して死ぬ覚悟でした
戦場でしたから
会津を守るための戦でしたから
死んだみんなの無念を晴らしてぇ
だげんじょ恨みを支えにしては後ろを向くばかりで
前には進めねぇのだし
さっきのがあんまり美味しくて
みんなでいただけるのが嬉しくて
もうしばらくこうして生きていってはなんねぇべか?」
先程母が振舞ってくれた会津の郷土料理・こづゆを食べて
こんなにもうまいと感じた時
八重は前に進んで生きたいと思った
大蔵は八重の主張を尊重して米沢の地を去っていった
年が明け
大蔵ら会津の者達は斗南の地に向けて出発した
そして八重は
この米沢の地でまた反物の行商を行なっていた
それぞれの再起を求めて―――――
亡くなった者の無念を晴らしたい
でも恨みを抱えたままで生きていっては前に進めない
八重には
母と兄の妻と姪を守るという責務が
大蔵には
会津の藩士らの生活基盤を築き上げ守るという責務が
それぞれに託された
ということですね
八重は父・権八に託されており
大蔵は義兄・梶原平馬に託されており
それぞれに再建のために
己の信じる道を突き進んでいく
といったところでしょうか
そして中村優子さん演じる千代は
会津の武家の者達が持つ怨嗟の念の象徴のような
描かれ方をしておりました
これが会津の者達がもつ
純然たる本心であるという風な感じで
その思いを果たすためには
どんな屈辱でも耐えようと
しかしそれが本当に良いことなのか
その狭間で揺れ動いている
といったところでしょうか
信念は信念として貫いていきたい
それが「斗南」の名に込められていたというとこでしょうか
今週のイラスト

会津藩が降伏した後
最後に唯一つ徹底抗戦を貫いていた庄内藩も降伏
これより東北の地は新政府軍によって制圧された
容保親子は助命を許された
山川大蔵らの容保の助命嘆願を行ったとも
萱野権兵衛が自ら此度の合戦の首謀者であり
容保公には何ら罪はないと新政府に主張したとも言われている
その是非はともかくとして
萱野権兵衛はこの戦の責めを負い切腹した
その同じ日
幕府の残党が立て篭もる五稜郭が陥落
これによって新政府への抵抗勢力は一掃された
新政府軍の処断により
東北諸藩の多くはその石高を減封(石高を減らす事)されていた
減封・転封された諸藩
処罰 | 以前の石高 | 処罰後の石高 | 比率 | 家老処罰 | |
仙台藩 | 減封 | 62 | 28 | 45% | 4 |
会津藩 | 転封 | 23 | 3 | 13% | 1 |
盛岡藩 | 転封 | 20 | 13 | 65% | 1 |
米沢藩 | 減封 | 18 | 14 | 78% | 0 |
庄内藩 | 減封 | 17 | 12 | 71% | 0 |
山形藩 | 転封 | 5 | 5 | 100% | 1 |
二本松藩 | 減封 | 10 | 5 | 50% | 0 |
棚倉藩 | 減封 | 10 | 6 | 60% | 0 |
長岡藩 | 減封 | 7.4 | 2.4 | 32% | 0 |
一関藩 | 減封 | 3 | 2.7 | 90% | 0 |
上山藩 | 減封 | 3 | 2.7 | 90% | 0 |
福島藩 | 転封 | 3 | 2.8 | 93% | 0 |
亀田藩 | 減封 | 2 | 1.8 | 90% | 0 |
天童藩 | 減封 | 2 | 1.8 | 90% | 0 |
泉藩 | 減封 | 2 | 1.8 | 90% | 0 |
湯長谷藩 | 減封 | 1.5 | 1.4 | 93% | 0 |
下手渡藩 | 転封 | 1 | 1 | 100% | 0 |
減封を免れた藩もあったが
その藩では金銭を新政府軍に献納したと言う
転封された藩の多くは旧領であったり
西国の地であったりとしたのだが
会津は更に寒さの厳しい地で
石高も大きく減らされた形での転封は
最早島流し同然であると考えるのもやむを得ないものであった
山川大蔵は藩の名だけは
自分らの手でつけることを許された
そこで彼が名付けたのが「斗南」
「北斗以南皆帝州」という詩文からとった
我らは朝敵ではなく帝の民であるという意味だと言う
これが今の会津の精一杯だった
八重はみねと共に
米沢藩で反物の行商を行なっていた
かつて川崎尚之助や八重の下で砲術を学んでいた
米沢藩士・内藤新一郎の申し出により彼の屋敷の離れに身を寄せていた
米沢藩は領地を奪われ
武士達の暮らしは厳しくなったが
領地を全て奪われた会津の比ではなかった
皆々こうして何かしらの縁者を頼ったり
農村に住まいを借りるなどして日々の暮らしを長らえていた
その八重は夜になるとうなされる事が度々あった
あの合戦の日々
夜襲をした記憶
敵の銃弾が飛び交っていたあの日々
尚之助は何故私を生かしたのか?
目が覚めると傍にいたみねを抱きしめた
「さすけねぇ
もう弾は飛んでこねぇ」
母・佐久の言葉で我に返る
「八重
さすけねぇか?」
「さすけねぇ」
今でいうところの心的外傷後ストレス障害
PTSDであったであろう
その行商の中で八重は一人の女性に声をかけられた
その女性は千代と言い
八重と同じ会津の者であった
会津訛りの方がいると思い声をかけたらしい
そして八重を見て驚いていた
千代ら会津の女性にとって
鉄砲隊を率いて戦った八重を知らぬ者はいなかった
八重は千代が働いている
田村屋の下を訪ねてきた
千代は会津戦争で夫を失っていた
「息子にも敵を討ってもらわねばなんねぇ
今度戦が始まったら私も八重さんのように
鉄砲を撃って一人でも多くの敵を倒す
私は夫の仇を討ちでぇ
それまでは恥を忍んでも生き抜いてこの子を育てる
息子を強ぇ武士に育てて恨みを晴らす
こうしている間も憎い敵はのうのうと生きている
強くなって父の仇を討ち恨みを晴らす
薩長に一矢報いんだ」
そこに田村屋がやってきた
「毎日毎日敵を討ての
恥をそそげのと同じ繰り言を並べて辛気臭くてかなわぬわ
会津会津と念仏のように唱えてるけども
そだな国はもうとっくに潰れてなくなった
いつまで武士の奥方面をしている!
わしが拾って囲い者にしてやったんだべ
食い詰めて首くくるしかなかった賊徒の親子が!」
田村屋の言葉に
八重は千代が言う「恥を忍んで」という意味がわかった
更に田村屋は言葉を続けた
それは千代ら会津の者達を罵る言葉だった
八重は田村屋を叩き伏せ
思わず殺そうとしたその時
千代が必死になって田村屋を庇った
「やめてくなんしょ!
許してくなんしょ!
この人に何かあったら息子は生きていけねぇ!」
八重はそれ以上手をあげる事はできなかった
別れ際
千代は己がこんな事をしてまでも生きながらえている自分が情けなかった
「今は生き抜く事が戦だ
生きていればいつか会津に帰れる
それを支えに生きていくべ」
そう言って八重は千代を励ますように
己を励ますようにしてその場を後にした
その年の秋
山川大蔵が八重の下を訪ねてきた
会津の再興がかなった
転封で石高も大きく減らされたが
御家はどうにか存続できた
そこで大蔵は八重に
御家再建のために力を貸してほしいと
斗南に来てほしいとして
こうして足を運んだのであった
それに対して八重の返答は
しばらくはこの地に留まるというものであった
「わだすは怖ぇのです
この前会津を侮辱した人をもうちっとで殺めてしまうところでした
お城に上って戦った時
一人でも多くの敵を倒して死ぬ覚悟でした
戦場でしたから
会津を守るための戦でしたから
死んだみんなの無念を晴らしてぇ
だげんじょ恨みを支えにしては後ろを向くばかりで
前には進めねぇのだし
さっきのがあんまり美味しくて
みんなでいただけるのが嬉しくて
もうしばらくこうして生きていってはなんねぇべか?」
先程母が振舞ってくれた会津の郷土料理・こづゆを食べて
こんなにもうまいと感じた時
八重は前に進んで生きたいと思った
大蔵は八重の主張を尊重して米沢の地を去っていった
年が明け
大蔵ら会津の者達は斗南の地に向けて出発した
そして八重は
この米沢の地でまた反物の行商を行なっていた
それぞれの再起を求めて―――――
亡くなった者の無念を晴らしたい
でも恨みを抱えたままで生きていっては前に進めない
八重には
母と兄の妻と姪を守るという責務が
大蔵には
会津の藩士らの生活基盤を築き上げ守るという責務が
それぞれに託された
ということですね
八重は父・権八に託されており
大蔵は義兄・梶原平馬に託されており
それぞれに再建のために
己の信じる道を突き進んでいく
といったところでしょうか
そして中村優子さん演じる千代は
会津の武家の者達が持つ怨嗟の念の象徴のような
描かれ方をしておりました
これが会津の者達がもつ
純然たる本心であるという風な感じで
その思いを果たすためには
どんな屈辱でも耐えようと
しかしそれが本当に良いことなのか
その狭間で揺れ動いている
といったところでしょうか
信念は信念として貫いていきたい
それが「斗南」の名に込められていたというとこでしょうか
今週のイラスト

この記事へのコメント
待望の時栄ありがとうございました。
小田にするか・・・山本にするか迷うところですな・・・。
内縁の妻としてはもう完全に山本時栄な感じでしたなあ。
まあ・・・ギリギリ側室OKの時代でございますからねえ。
血も死体も残さない大河ドラマですが
婦女子凌辱話だけはそこはかとなく語る傾向にありますな。
これは脚本家の好みの問題なのかもしれませぬ。
歴史の流れと・・・主人公たちのドラマ。
この兼ね合いがお茶の間との駆け引きで
いろいろと亀裂が生じてる感じですが・・・。
函館戦争も一応終結。
次は西南戦争がどの程度・・・描かれるのか。
ワクワクしながら待機の今日この頃でございます。
米沢の商人の囲い者となっている千代さんはもとより、処刑間際の萱野権兵衛や下北半島の斗南藩に転封となった会津藩士にとってはこの時点では自分達を攻め滅ぼした新政府に対する復讐を遂げて会津に戻るという事を念願に置いていた旨が描かれましたが、その後の歴史の流れを思うと復讐など成される機会すら無くなってしまう事を思うと複雑な気分になってしまう程でした。
しかしながらそんな復讐を抱いている旧会津藩士とは異なり、西郷頼母だけは真逆な立場にて「会津を攻め滅ぼした新政府がどのような国を作るのか見届けるために生き延びよう」という考えを持っていたという描写には後になって意味深なものにも感じられました。つまるところ復讐の怨念だけでは何も進む事はないという事を言いたかったのではないかという事です。八重さんのその後の人生を考えると、復讐ではなく新しいやり方で雪辱を果たすという事になりますので今回のエピソードも明治編の伏線となるものと言ってもいいのでしょうか。ちなみに頼母の上記の台詞はかの日テレ版「白虎隊」にて西田さんが演じていた萱野権兵衛の壮絶な切腹における今際の際での「薩長の連中がどんな国を作るのか見てやるぞ」という台詞のオマージュに思えて、思わず感嘆してしまいました。
旧会津藩は今回斗南藩という形でのお家復興となり、大参事となった大蔵も「会津にはなかった海があるから交易を振興して国を富ませよう」と藩士達を前に語っていましたが、斗南藩は下北半島という極寒の地の上に火山灰地質の不毛な土地ばかりという過酷な場所で移り住んだ藩士達の生活は悲惨を極め、終いには廃藩置県によって会津復興という目的自体が消滅してしまう末路を思うとこれも複雑な気持ちにさせられます。ikasama4様もおっしゃられているように生きる事だけで手一杯な過酷な土地への転封というのは実質的に藩それ自体の島流しであったというのは真にそうだとしか思えませんでした。
こんばんはです
どうにかこうにかぎりぎり間に合いました; ̄∇ ̄ゞ
ギリギリというか
今でもバレなければどうにかこうにか
みたいな時代になっていますが; ̄∇ ̄ゞ
まぁあの西郷さんも現地妻がいましたからねぇ
なんともかんともです; ̄∇ ̄ゞ
生きていく中で
身内を殺された恨みを
晴らすために生きていくのか
抑えて乗り越えて生きていくのか
この辺の色合いが強く出ていた感じですかね
西南戦争では下野した士族の補充として
敵の敵は味方、みたいな理論で
会津が活用されていくみたいな線が浮かんできますが
さてはてどうなることか私も楽しみな今日この頃です ̄∇ ̄
希望をもって生きるというよりも
ただただ生きるという事だけでさえ大変だった時代
その中で
どうして自分達はこうなってしまったのか
そうしてその責任を
薩長ら新政府になすりつけたりする
千代やゆきさんのように
こういうのがごくごく普遍的な光景だったのかもしれません
一方で八重らのように
前を向いて今を生きていく
みたいなのは少数派であったのかもしれませんね
元々会津というのはそれほど裕福ではなかった事もあり
島流し同然ともいうような減封&転封で
今まで俸禄をもらっていた士族は
自分達で金を稼がなければならざるを得なかった
これが薩長の目指していた国なのか
みたいな感覚はことさら会津の方々にはあったのでしょうね
そうした時を経て生き残ってきた方々が
敵の敵はなんとやら、みたいな思惑はともあれ
公務員としてどんどん採用されていった
みたいなとこになったのかもしれません
時代というかなんというか
政権を握る者の都合によって
翻弄されてしまうみたいなところがあります