天地人 第42話 「将軍誕生」

今回のあらすじ


・「将軍誕生」と言いながら物語は直江家と上杉家のホームドラマ一色です。

・おヒゲを剃った遠山康光は別人のように前よりとっても若返りました

・親子の絆の深さこそ上杉の家風と語る兼続さんです。

・相変わらず家康を「舅殿」と呼ぶヒゲをはやした政宗さんです。

・菊姫様が亡くなった悲しみを抑えて仕事をこなすけど涙が出ちゃう景勝さんです。




スタッフは大分苦しみながら色々とネタをひねり出したようですねぇ。



菊姫が倒れた報を聞いた際には
江戸にいる家康の面会を無視して京・伏見に行ったのに

菊姫の訃報には菊姫に早くも会いたい思いを抑えて
秀頼のいる大坂に向かうっていうのは

上杉家は豊臣家の家臣であるから
筋としては豊臣家を優先すべきだと考えたまではヨカッタかもしれませんが


過去に上杉家は養子であったために家中が割れたみたいな言い方をしてましたが
家中がもめたのはあくまでも養子が二人いた事が問題だったのであって
養子であっても一人であれば問題はなかったかもしれんですがね。

まぁ可能性としてなくはないですが


「いつ滅んでもおかしくないお家に養子など来ましょうか」

という意見に関しては

「いつ滅んでもおかしくないお家に嫁になる女性がおりましょうや」

と考えられなくもないわな ̄▽ ̄


それに武田が滅んだのは勝頼が側室の子だという意見は傑作です≧∇≦

信玄公が武田勝頼を諏訪家の総領と他家を継がせておきながら
他にも信玄の子がいるのに勝頼に家督を継がせてしまったのが
一番の問題だと思うんですけどね ̄▽ ̄




さて、今回後姿しか出てこなかった
上杉景勝の側室は四辻家の出だそうで

この四辻家は
室町家とも呼ばれる羽林家の家格を有する公家だそうなんですが

彼女が景勝の子・定勝を1604年5月に生んで
それから3ヶ月後の8月に亡くなったそうで。

そもそも、どういう経緯で景勝が彼女と知り合ったのかが
よう分からんのですねぇ。

上杉家とこの四辻家との関わりに関して
彼女の祖父と言われる方がかつて武田信玄の家督相続に関して
天皇の倫旨を伝達しているそうで

そうした事で京にいる武田出身の菊姫を通じて
その縁で知り合う事が出来たのではないかとも言われているそうなんですが

その説を立証する証拠はないそうです。



そういう事で適当に妄想するならば
定勝は景勝が兼続の妻・お船に手を出してお船が生んだ子で
上杉家を救うために自ら影勝の子を生んで

この事実を隠すために
別の女性を生母に仕立てて、その女性を四辻家の養子とし
事が露見しないように口封じしたみたいな展開でもアリかなと。


もしくは
直江兼続とお船の方がもしくはどこからか養子を取って
それを上杉景勝の実子とし
別の女性を生母に仕立てて、その女性を四辻家の養子とし
事が露見しないように口封じしたみたいな展開でもアリかなと。


ドラマ的にもそっちの方が面白いと ̄▽ ̄


まぁそんな妄想はともかく

その後、定勝は直江兼続・お船夫妻が養育に当たったそうで。

そして断絶になった直江家の菩提寺は徳昌寺だったのですが
1637年に徳昌寺と上杉家の菩提寺である林泉寺の住職との間で争いが起こり
その結果、徳昌寺の住職は敗れ越後・与板に追放され
林泉寺は徳昌寺の土地を併合し、その際に
林泉寺は直江夫妻が眠る墓を林泉寺内に改葬したそうです。

これにより
 林泉寺は上杉家の菩提寺であると共に
直江兼続とお船の方の菩提寺でもあるという事になります。


ちなみに1637年はお船が亡くなった年です。



さて、次回は「実頼追放」
関ヶ原以降、ようやくタイトルとドラマの内容があってきました ̄▽ ̄

どんな方向に流れていくのでしょうか
スタッフ達が話を持たせるために
毎回苦しんで作るネタが楽しみになってきました ̄▽ ̄ゞ

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この記事へのコメント

2009年10月19日 00:19
遠山は、一体いつまで出続けるんでしょう~!
しかも若返って行くなんて、幕末まで江戸にいそうで恐いです^^;

>「いつ滅んでもおかしくないお家に嫁になる女性がおりましょうや」

私もこれ思ったんですよね^^;
そんな家に側室を囲える余裕があるのか~?
お公家さんの姫君なら、どんなに落ちぶれていても
付き人も着いてくるし~。。。食い扶持がまた増える(^▽^

上杉を継いだのは、兼続とお船の養子。。。説は有り得るかもですね。。。
養子じゃなくて実子だったりして。
だから兼続的には直江が断絶しても上杉に実子がいるからいいや~。。。
みたいな話は有り得ませんかね^^;
ikasama4
2009年10月19日 00:28
くう様
大坂の陣でも遠山さんは出てきそうですね。

他局ながらTBSに螢雪次朗さんが
出てきたら、その説は実証されそうです ̄▽ ̄

>そんな家に側室を囲える余裕があるのか~?
そこが気になるんですよねぇ。

まぁ公家も家柄によって
貧乏なとこもあったらしいんですけどね。

個人的にはそっちの妄想の方が
断然面白いんですけどね。

>だから兼続的には直江が断絶しても上杉に実子がいるからいいや~。。。
>みたいな話は有り得ませんかね^^;
この脚本家にはそういう話は
念頭にないみたいです ̄▽ ̄ゞ
ましゅ
2009年10月20日 12:38
 はじめまして。遊人庵様経由(?)でこちらに来たましゅです。あちこち読ませていただきました。ありがとうございます。特に「天地人 第41話」に載っていた本田政重についての事は、とても興味深かったです。

 今回は定勝の母親に関してで、こちらにも驚きました。直江家の菩提寺破却は上杉家中に兼続への反感が多かったことも関係しているのか、などとと考えていたら、ほぼ正反対のこういうこともありそうですね。

 ところで、少し前に本田政重について調べていたら、こういうのを見つけました。



政重が兼続の養子となった経緯について、気になる史料がある。
『加賀藩史料』に載せられた「本多氏由緒帳」に、次のような記述がある。

同九年(注 : 慶長九年)奥州米澤上杉景勝殿實子無之、家臣直江山城守女子有之、景勝殿之為養女、政重を以配之。以後男子も於無出生は、上杉家相續有之度之旨に付、瑞龍院様(注 : 前田利長)御怡悦奥州江被遣。右養女無程死去、上杉家にも實子出生、旁以慶長十六年米澤退去。

これによると、政重は、景勝の継嗣出生のために上杉家に来たと読み取れる。(しかも、兼続の娘を景勝の養女とした?)景勝に実子が生れたので、その必要がなくなったということか。(ただし、景勝の子は政重が直江家に来る3カ月前に誕生している。)

http://shungansho.fc2web.com/kiseki/kiseki-2.htmより)


 お松を景勝の養女にして政重と娶わせ、生まれた男の子をまた景勝の養子にして、跡継ぎにするつもりだったのでしょうか?側室を持ってもすぐ子供が(まして男の子が)生まれるわけではないので、そうしておけば、景勝に実子の跡取りが生まれなかった場合も、お松の子を養子にして跡取りを確保できる、と考えたのでしょう。

 
ましゅ
2009年10月20日 12:42
続きです。長くてすみません。

 でも、すぐに景勝に男の子が生まれたので、お松は直江家に戻されたのだろう、とわたしは思っていたのですが。

 こちらを読んでびっくりして、「うーん、もしかしたら」とうなって(笑)しまいました。もちろん、定勝の母親がお松ではないかと考えたのです。養女という名目の側室だったのでは、と。

 お船の方ということも考えられますが、定勝が生まれた時お船の方は46~7才。当時この年齢で子供を生んだ女性もいたそうですけど、医学の進んでいなかったあの時代に危険すぎます。母親がお松だったら、定勝はお船の方の孫というわけで(それも亡くなった娘の忘れ形見で)、心から愛して育てたというのも当然と思います(主君の若君だというだけでも十分愛情を捧げたでしょうけれど)。

 四辻氏が亡くなったのは慶長9年8月だそうですが、丁度この年この月に本田政重が直江家に入っているのも不思議です。時々ある妙な偶然かもしれませんが、妙はやっぱり妙です。まるで景勝の養女=側室だったお松は死んで、直江家の跡取り娘だったお松にもどった、と言わんばかりで。

 
ましゅ
2009年10月20日 12:46
(またしても続きです。我ながら長いなあ…。申し訳ありません。)

 もちろん本当のことはわかりません。単なる妄想ですが。でも、いろいろ想像(妄想 笑)するのは楽しいです。

 で、話しは変わりますが、兼続の庶子ということになっている高野山の僧、清融については、てっきり直江信綱の子で寺へ追いやられたのだろうと思っていました。ところが、この人はお船の方と信綱が結婚した3年前に生まれているそうで、つまり信綱の子供ではあり得ないそうです。これにもびっくりしました。では誰の子か?お船の方は実は3回結婚していて、その初婚の相手の子か?兼続が数え年15才の時の生まれで、あの頃13~4才で結婚し翌年には子供が生まれることもあったと言うから、案外兼続の方の初婚の子か?昔はちょっとした怪我や病気で人は簡単に死んだから、若いうちに何度か配偶者をなくし再婚を繰り返すのは珍しくなかったと思います。それとも何か理由があって養子にした人か?

 わかるはずもありませんが、ほんの3~4百年前でも、案外はっきりしないことが多いですね。

 はっきりしないから妄想のし甲斐があって面白いのですが……ただ、大河ドラマは人をシラけさせるような妄想はやめて(感心するような妄想なら大歓迎ですが)、正史を格調高くじっくりと描いてほしいものです。
ikasama4
2009年10月20日 21:10
ましゅ様
どうもはじめましてです。

そして史料のURL、どうもありがとうございます。

Biglobeは500文字って制限があるので
ご迷惑をお掛けします。

まぁ長いのは全然大丈夫です ̄▽ ̄


兼続の娘・お松を政重に娶らせる
ここでお松を景勝の養子にすれば

政重が継嗣出生のために
上杉家に来たと読み取れるとこがありますね。

そうなると気になるのは
政重が何故出奔したのかってとこと
上杉家と直江家の関係ですかね。
ikasama4
2009年10月20日 21:10
こちらも続きます ̄▽ ̄ゞ
定勝の母親がお松という説は面白いですね。
景勝の側室・お松はこの時死んだと同時に
政重の妻として生まれ変わったって事ですからね。

たしかにそうなれば兼続・お船が
定勝を養育した話も合点がいきます。

ちなみに、兼続にはもう一人娘がいました。
自分のとこでは彼女は
色部光長の妻という事にしましたが
一説には色部光長の妻は兼続の妹という説もある訳で
もし、色部光長の妻は兼続の妹だとしたら

兼続のもう一人の娘はどうなったのかって事ですね。
まぁ記録が見当たらないので
早死にしてる可能性もあるんですけど(; ̄∀ ̄)ゞ


ちなみに直江家に関しては
直江景綱には弟が二人いて
それぞれ松本家、篠井家を継いでいる訳なんですが

個人的に気になるのは景綱は自分の後継として
長尾家の信綱、樋口家の兼続と

何故、分家ともいえる松本家・篠井家から
養子をとらなかったのかなというのが気になりますね。
ikasama4
2009年10月20日 21:11
更に続きます ̄▽ ̄ゞ
でもって、清融に関しては
1631年に58歳で死去しているそうで
逆算すると1573年生まれという事になります。

景綱が1577年に没した後
養子の直江信綱が迎えられたという話があり

それを考えればお船は三回結婚していた可能性は高いですね。
もしくは未婚のまま身篭ったために
子供を僧籍に入れたのかもしれません。


で、清融が高野山は龍光院の三十六世となっているそうです。

調べてみると色々と面白いもので
本来ならば正史の部分をベースに分からない部分を
如何に妄想で埋めるかが歴史ドラマの面白いとこですが

今年の大河ドラマはその正史を
妄想で歪めてますからねぇ; ̄▽ ̄ゞ
rino
2009年10月21日 13:36
こんにちは。
政宗、ほんとにいつまで家康を「舅殿」と呼ぶんでしょうね?
それともこのドラマでは政宗が忠輝を娶ったという斬新な設定にしてあるのでしょうか。
その場合、征夷大将軍の子を側室になんかできないから、愛姫を側室に格下げして忠輝を正室に迎えたのかな?と考えてしまいます。
あっ!
もしかすると、正史通り五郎八姫と結婚した忠輝に、政宗がついつい手を出してしまって男色の仲になったもんだから、本来舅同士であるはずの家康に対してついつい「舅殿」と呼んでしまうとか??

それはさておき、兼続が夫婦が思いあい、親子の情が深いのが上杉みたいな、当時の常識とかけ離れたことをのたもうてましたね。
そんなことを言ってるあんたとお船は、お船が信綱と結婚しているときからロミオとジュリエットごっこのような雰囲気ばんばん出してたじゃないか!と突っ込みたくなりましたf(^^;
ほんとにご都合主義な、ストーリーの流れもばらばらな脚本なんだから・・・。
竹松の病気~お船の米沢入りについても、脚本家・監督ともに、メールか電話で竹松病に伏す!と京都に連絡が即効入り、一番早く米沢に着く新幹線か飛行機を調べたお船がすぐ米沢に駆けつけた・・・としか思えなかったし。

朝令暮改じゃないけど、朝にはコロリを知らないと言っておきながら夜には必死にコロリ対策をする態度の変化も「なるほど」と思わせる『仁』(朝には仁に頭を下げていたけど、夜になると「信用できない」と不信感をあらわにする緒方洪庵の心境の変化も納得だし)の脚本を見習って欲しいですね。
人間、言ってることとやってることが違ったり、考えが変わったりするのは当然なのだから、それを当たり前の流れとして見せるか、人物の描き方にブレがあると思わせるかは脚本次第なのだから・・・。
ikasama4
2009年10月21日 21:54
rino様
こんばんはです。
伊達政宗には少なくとも7人の側室がいたそうですが
NHKが独自の調査でその一人が徳川家康の娘、もしくは
養女である事が判明しているのであれば教えて欲しいものです。

>それともこのドラマでは政宗が忠輝を娶ったという斬新な設定にしてあるのでしょうか。
あまり、大河ドラマでは想像出来ない展開です
(; ̄∀ ̄)ゞ

何にしてもこの脚本家は
自分の得意な分野であるホームドラマにしたいようで。

移動に関しては景勝もお船も
1日で千里を走る馬があったかもしれません(苦笑)


描き方に関してはもう、アレですね。

とにかく自分を正当化するため
ツギハギだらけの理論で縫い繕ったってとこですね。

それがために
各登場人物をトコトン貶めていますからね。

>人物の描き方にブレがあると思わせるかは脚本次第なのだから・・・。
今年の大河は正にそれを痛感させてくれます┐(´ー`)┌
ましゅ
2009年10月22日 18:34
 お返事ありがとうございました。いろいろなことをずいぶん詳しく調べていらっしゃるのですね。

 そう言えば、兼続には娘が二人いましたね。手っ取り早く(?)WiKiを見たら、お松が亡くなる少し前にこちらも早世していました。

 定勝の誕生前後に、女性が何人も亡くなっていますね。三ヶ月前に菊姫、三ヵ月後に四辻氏。景勝の奥方が二人とも逝き、翌年には兼続の二人の娘。

 そして、その後何年もしてから、直江家は男子も亡くなって、お家断絶となりますが……。

 10月11日に書かれていた、本多(おとといは変換ミスしていました。申し訳ありません)政重が加賀へ去った際、本庄長房や篠井氏(お船の方の従兄弟でしょうか?)を連れて出たので直江家の養子候補がいなくなり、しかもお船の方が亡くなると定勝が本庄長房を呼び戻している、という話しは、初耳の上とても気になりました。定勝はお船の方を相当慕っていたようなのに直江家の断絶は望んでいたのだろうか、と不思議でした。景明は病弱だったそうで、誰の目にも若死にするのが明白だったのかもしれませんし。

 謙信の時代から少しも一枚岩ではなかった越後で、兼続も若い頃から家中に敵が多かったそうですし、やはり30万石への減封は重いですから、とても怨まれたことでしょう。でも直江家にしてみれば兼続は入り婿(笑)。婿さんのせいでお家断絶ではたまらないでしょうに。跡取り娘はお船の方なのですから、加賀でもどこでも近い親戚がいたならそこから養子を取れそうなものなのに、と思いましたが。
ましゅ
2009年10月22日 18:37
また続きます。今回も長くてすみません(笑)。

 すると今回、定勝の母親がお船の方で、直江家の血は上杉家に入ったのではないか、という発想の妙に仰天(笑)しました。目から鱗ボロボロでした。米沢にギュウ詰め移封の混乱の中で、奥向きのことは案外隠せたかもしれません(よそからお嫁さん貰うほどのお金も、実際なかったでしょうね 笑)。

 年齢のことを考えて、お松かとも思いましたが、お船の方でもおかしくありません。お船の方と四辻氏の戒名が似ているのも気になります(お船の方のが「宝林院殿月桂貞心大姉」、四辻氏が「桂岩院殿月正清佳大姉」です。月と桂だけと言われればそれまでですが、娘達のとは全然違いますし)。お松を先に側室にあげてしまったら、本多家に対して失礼でしょう。

 それにしても、120万石から30万石への減封の責任は重い。兼続はよく生きていられたと思います。

 遊人庵様の方に、上杉側、つまり兼続に三成敗北の責任はなかったのではないか、と書いたことがありますが、家康に対する上杉敗北の責任は重大です。こういう場合、最高責任者である執政は自裁しなくてよいのでしょうか?米沢移封以後何年かはその民政&外交手腕が必要不可欠だったかもしれませんが、領内が安定したら示しをつけて家中一同に詫びるべきだったのでは、と思えてならないのですが、どうなのでしょう?
ましゅ
2009年10月22日 18:39
続きです。

 (軍事については全くわからないのですが、関が原の時だって、関東に出られないとしても、国境近くで小競り合いなどして家康の上方行きをできるだけ遅らせることができなかったのでしょうか?また、そもそも徳川軍を会津に引き入れても勝てたのでしょうか?三成の挙兵に救われていたりしないでしょうね?まあ、それはともかく……)

 自分は天寿まっとうして入り婿先をつぶすとは何事か、と思っていたら、兼続自身の意志で断絶させたという証拠もないようで……。

 全く、なぜ直江家は断絶したのかとか、本多政重は何のために来てなぜ加賀へ去ったのかとか、わからないことだらけですが、直江家断絶の理由が、(くう様言うところの)>兼続的には直江が断絶しても上杉に実子がいるからいいや~。。。だったら、なかなか面白いですけど(笑)。

 (義と愛を振りかざして猪突猛進すれば、戦国時代を生き抜くのもカンタンよ、なんて妄想は、ちっとも面白くないです)
ikasama4
2009年10月22日 23:42
ましゅ様
調べるのは大好きなもんで ̄▽ ̄ゞ

ちょっと前置きが長いですが

越後は国人衆の主張が強く
謙信の時代も悩まされていましたが
越後がどうにかまとまっていたのは
謙信の強さとカリスマがあってのもの

謙信が死ぬと再び家中が割れ
誰が跡継ぎになっても、不満を持つ者が
兵を挙げたりしてましたからね。

そこで景勝は権力を一極に集中させる方法を
選んだという事ではないでしょうか。

その白羽の矢が立ったのが
直江兼続だったのだと思われます。


兼続は御館の乱以降に名が出てくるまで
それまでの経歴は諸説あるくらい
謎が多いですからね。

ただ、兼続が景勝の信任を得ていたのは
まず、間違いないんでしょうね。
ikasama4
2009年10月22日 23:43
続きです。
でも、兼続のような人物を
権力の集中化に据える過程で
景勝-兼続の意に反する者の
排除があったかと思われます。


上杉家家中で相当なる実力を持っていた
上条(畠山)政繁は上杉家を出奔

柿崎や須田、長尾家と親戚関係にあった
高梨も突然改易されたりしてますしね。

その後、彼らの家は許されて
米沢藩に戻っていますが、

その畠山家を中心に
直江兼続は主をたぶらかして
上杉家を減封した奸臣と評されたそうです。

それもこれも過去の経緯から
兼続が先祖を追放に追いやったと考えた反兼続派が
いたからなんでしょうね。


その後、米沢藩9代藩主・鷹山が兼続を手本に
藩政改革を行った事で兼続の評価が
改められたそうです。

でも、直江家は再興されない。


理由のひとつとしては上記のように
反兼続派が直江家の再興を反対したとも言えますが

もうひとつの理由は藩主の遺命でしょうかね。

何せ藩士のリストラをしなかった藩ですからね。

兼続の弟・実頼の大国家が断絶になっても
後に再興されていたり
幕末では色部家の家老が敗戦の責任を取り処刑され
色部家は断絶されるも、後に再興されているんですが
直江家だけは違うんですよね。
ikasama4
2009年10月22日 23:44
更に続きです。

で、どうしてかなと考えたのが
実は上杉定勝は直江家の子ではないかという事です。

もしくは直江家からの養子かも; ̄▽ ̄ゞ



で、四辻家とかを使って色々と偽装工作をすると。

ただ、直江家が続くとその秘密が漏れるかもしれない。

なので直江家そのものを断絶させる事で
その秘密を消してしまったという事では
ないでしょうかね。

兼続はともかく直江家の血筋である
お船の方が直江家の断絶も止む無しとしたのは
そういうトコロが理由だったのかなと思ったりして ̄▽ ̄


ちなみに私個人の兼続の評価は
内政を携わる政治家としては優秀だけど

戦、特に臨機応変が必要な短期決戦は苦手というとこでしょうか。

それから戒名とは面白いですね。
お船が「宝林院殿月桂貞心大姉」
四辻が「桂岩院殿月正清佳大姉」ですか。

こういうのは辞書で漢字を一字ずつ
調べていくともしかしたら何か見えてくるかもしれません。

ちなみに
Yahoo!の辞書で見た限りでは

佳は「美しいこと」
正は「本当であること」
清は「清らか・すがすがしい様」
桂は中国の伝説で「月の世界にあるという木」
貞は「節操を堅く守ること・女性の操の正しいこと」
だそうです。
ましゅ
2009年10月24日 16:18
 丁寧なお返事をありがとうございます。またしつこくお邪魔して(笑)申し訳ありません。

 上条正繁の子孫、米沢に帰っていたとは。旗本か何かになったと記憶していましたが。傍流が帰っていたのでしょうか?だったら、兼続への風当たりは強かったでしょうね。

 景勝からして元は上田長尾家の当主にすぎず、兼続はその小姓あがりですものね。そもそも長尾家が謙信の父親の代にのし上がったばかりらしいから、景勝も越後国内だけで大変だったのでしょう。御館の乱の時には、たちまち国じゅう真っ二つに割れていますものね。

 ところで、月の桂って何かで読んだなと思い出し「中国伝説集」を引っ張り出してみたら、月に生えている絶対枯れない大木だそうです。そして、悪いことをした仙人がその根元を斧で切らされる罰を受けているのですが、毎日毎日斧を入れてもその切り口はすぐ塞がってしまうので、少しも切れないのだとか。

 「(直江家は)切り倒されたように見えても、ホントは切られていませんよ~」とか……想像ふくらみますね(笑)。

 戒名の他の部分はよくわかりませんが、「桂岩」はもしかしたら中国奥地の名勝、桂林の岩山かもしれません。月の桂(モクセイ)の種を蒔いてモクセイの林のようになったので桂林という名にしたという伝説がある土地で、水墨画によく描かれているままの太い石柱のような岩山がたくさんあります。中国から渡ってきた書画でそれを見た昔の日本人は、それを実際ある風景とは考えず、神仙境を想像して描いたものと思っていたそうです。

 名前で言えば、定勝の子は綱勝で、その子は綱憲(憲はもちろん上杉憲政の憲ですね)で……本当にあやしいですね。
ましゅ
2009年10月24日 16:20
またまた続きまする(笑)。

 話しは変わりますが、わたしは少し前に最上義光を主人公にしたネット小説を見つけて、今読んでいる最中なのですけど、おとといの夜その作者さんのブログを覗いてみたら、思いがけないことが書いてありました。

 ドラマ「天地人」の長谷堂城攻め(だか撤退戦だか)の場面で、兵士の中に最上義光の兜をつけた人物を見たそうです。そして、だから、兼続が投げた朱槍(を投げましたっけ?覚えていません 笑)も元は前田慶次郎のものだったのではないか、と言うのです。

 つまり最上義光や前田慶次郎が出る予定でその武具も作ったのに、何かの理由で途中で出せなくなった、というわけです。(来週にでも、遊人庵様の所にも言いつけてやろう)

 そのアマチュア作家さんは、脚本家が歴史ドラマを上手く書けないため余計なもので(ホームドラマとか青春友情ものとかで)引き伸ばしているうち、長谷堂城攻めを入れる時間がなくなってしまったのでは、と推測しておりました。

 他の可能性としては(ふざけて)、山形県民からの抗議が殺到したからとか、脚本を読んだ俳優が逃げ出したからとか、義光公のタタリとか、兼たんの弱みは書けなかったからとか、いろいろあげておりましたが……最後のが正解だったりして(笑)。
ましゅ
2009年10月24日 16:21
続きです。

 その長谷堂城攻防戦ですが、3~4日前に買って読んだ「守りの名将・上杉景勝の戦歴」という本に、兼続は長谷堂城を囲んでいた9月21日にはもう9月15日の関が原での西軍大敗を知っていたらしい、ということが書いてあり、これまたびっくりしました。

 9月21日付の安田能元宛の手紙に、白河から早馬で「上方散々罷成候」という知らせを受けた、と書いてあるのだそうです。

 確かに、関が原のことを9月29日に知ったというのでは遅すぎます。景勝たちが上洛する時など、会津から京まで12~3日で着いたそうですから。それが緊急の連絡に二週間もかかるわけはないです。家康は7月19日の伏見城攻撃の報を小山で24日に受けたそうですから、上方と会津の連絡も一週間足らずでついたことでしょう。もちろん東北地方の他の地域も同様ですが。

 上杉も最上も、目前の敵より上方の情勢を気にしていたのかもしれません。翌22日に兼続が会津に「上方で徳川方が敗れれば~云々」と書き送ったように、まだ詳細もその後のこともわからず、西軍が持ち直す可能性も考えたでしょうから。

 9月21日に三成が捕らえられたことが一週間ぐらい後に東北地方全土に伝わり、それで長谷堂城から撤退ということになったのかもしれません。

 この撤退戦は見事だったそうですが、でも他のところを見てみると、この人はどうも戦は苦手だったようですね。
ikasama4
2009年10月24日 20:05
ましゅ様
何度も足を運んで頂き、何よりです。

Wikipediaで米沢藩を調べてみると
上条(畠山)政繁の一族で出奔して徳川家旗本になった者と
上杉家に残り、高家衆として米沢藩に仕えたものがある
みたいですね。

謙信亡き後の家督相続は
どちらも養子だという訳ですが
血統としてはかろうじて謙信の姉の子という事で
認められるとこはあるものの、上田長尾家の血を
引くということは反上田長尾派にとって
納得できないものだったのでしょうからね。

戒名に関するお話、どうもありがとうございます。

昔の方はそういう中国の故事や言葉に習う事があり
それは戒名に関しても例外ではなかったのでしょうね。

たしか、新潟には妙高山、八海山もありましたしね。

仏教での世界の中心ともいえる場所に存在する
須弥山の周りには七つの金の山と鉄囲山があり
その間に八つの海があるそうで
また、須弥山は意訳で「妙高」とも言うそうですからね。

名前では
景勝―定勝―綱勝―綱憲とあり
「勝」は景勝からの継承ですね。

ちなみに「綱」は直江景綱―信綱の
「綱」だったりして ̄▽ ̄ゞ

まぁこういうのは考えると面白いもんですね。
ikasama4
2009年10月24日 20:06
続きます。

ドラマでは関ヶ原での石田三成と徳川家康に
大谷吉継まで描いてる時点で
長谷堂城の戦いに関して描く気は特に
ないんだなと痛感しました(; ̄∀ ̄)

当初は最上義光も前田慶次郎も作る気は
あったんでしょうけど、二人を描くと
それは兼続を描く者にとって不都合だったと
いうところでしょうかね。

という事で最後のが正解だと私も思います。

西軍敗退の報に関しては面白いですね。
戦時においては敵方の使いを封鎖していたかも
しれませんが、当時は今と同じく
情報が戦局を左右する訳ですから
そういうのを掻い潜って主のために
急ぎ情報を持って知らせるというのが大事な
ことだったのでしょう。

となると、それが何故情報を遅く知ったと記載したのか

というトコロが引っかかりますね。
ikasama4
2009年10月24日 20:06
更に続きます。

長谷堂城から撤退後
上杉家では今後、徳川家に臣従するのか
徹底交戦を行うのか、意見があったそうですが
兼続はそこで徹底交戦を主張したと言われています。

もし、西軍大敗の情報を知っていたとしたら

その情報を隠蔽して、長谷堂城を攻めたとも考えられます。

戦に関しては新発田との戦いを見る限り
兵を率いた戦いは苦手だったんでしょうね。

ちなみに撤退戦に関しては
私は兼続が兵を指揮していたのではなく
前田慶次郎らが代行で兵を指揮していたと
思ってるんですけどね。
ましゅ
2009年10月25日 11:23
またまた、お邪魔します(笑)。

>その情報を隠蔽して、長谷堂城を攻めたとも
そのせいで、出羽の方の上杉側の将兵の中には、逃げ遅れた人たちも出たようです。うーむ…。

>兼続が兵を指揮していたのではなく前田慶次郎らが代行で兵を指揮していたと
うう…そうかもしれない。また目から鱗ボロボロです(笑)。この撤退戦だけ見事というもの妙な話ですもの。

新発田攻めの時にコテンパンにされて以来、どうも戦そのものにあまり出なかったようで…。若き日の兼たんは「ボクは堤防作る方が上手みたい…」と、お米作りや商業推進、銀山堀り、etc.に励むことにしたのでしょうか?

ikasama4
2009年10月25日 15:29
ましゅ様
どうぞどうぞ ̄▽ ̄

上杉としては
というか、兼続としてはどうしても
戦いたかった理由があったのかもしれません。

仰るように撤退戦は語り継がれる一方で

長谷堂城攻めといい
それまでの兼続の戦は散々なものですからね。

だとしたらと考えれば
誰かが兼続の代わりをしてたって考えるのがしっくりきます。

ちなみに兼続は旧武田家臣で
後に「直江氏被官の棟梁」と称された
春日元忠を配下にしていますが
長谷堂城攻めでは散々たる大敗だそうですからね。


兼続は戦には出なかったのも
おそらく兵を指揮するのが苦手だったんでしょうね。

それよりも仰るような内政・外交の方が得意だったんでしょう。

それに越後では武勇に優れた家臣が多い中で
兼続のように内政・外交が出来る知恵の優れた人材が
希少だったから重用されたのかもしれませんね。
匿名
2011年12月18日 13:20
上杉定勝生母の四辻氏については、兼見卿記にある直江養女のおまん御料人と、同一人物説があるそうです。
公家の場合、父親が早死にして、年の若い兄弟が家督を継いでしまうと、残された姉妹は、嫁ぎ先に恵まれなくなります。兼見卿記の記載年は、四辻氏の父親の亡くなった年と同じ頃であり、菊姫と公家衆の交流を思えば、四辻氏の直江養女説は、単なる俗説ではないと言えます。
ikasama4
2011年12月31日 21:05
匿名様
すっかり、返答が遅れましてすみません

なるほど、そういう説があるんですね

たしかに嫁ぎ先については思うところがありました

公家衆と武家のそういうつながりも面白いものですね

こういう歴史のわからない部分は断定されるまでは
あれこれ、推測で補えるから面白いものです

今度、別の作品でその説を採用してほしいものです

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