ドラマ化して欲しい戦国武将 「吉川広家」

今回は毛利家から「裏切り者」「本家を売った男」として
幕末に至るまで罵られた吉川広家でございます。


吉川広家はあの吉川元春の三男として1561年に生まれました。



        吉
        川
        元
        春
        │
        ├──┬──┬──┐
        │  │  │  │
        吉  仁  吉  娘
        川  保  川
        広  元  元
        家  氏  長



吉川家の流れに関しては先週の小早川隆景のトコロを見てやってつかあさい ̄▽ ̄ゞ



それから広家という名は
広家が吉川家の当主を継いだ後に改名したもので
改名前は吉川経言と名乗っていたそうですが


ここでは全て広家で通します。



さて、若い頃の広家ですが
相当な「うつけ」だったそうです ̄∇ ̄

礼儀作法がなってなくて

自分で勝手に他家に養子になろうと画策したりして
後で父・元春に怒られたという逸話もあります。


いわゆるバサラ、かぶき者だったのかもしれません。





そんな広家ですが、武勇に優れた父・元春や兄・元長と違って
結構知恵に長けたとこがあったそうです。

それは祖父・元就や叔父・小早川隆景
そして広家の妻の父親・宇喜多直家の影響があったのかもしれません。



             宇
             喜
             多
             直
             家
             │
    吉    ┌───┤
    川    │   │
    広━━━━娘   秀
    家        家



宇喜多直家の娘は秀家の姉になるので
宇喜多秀家にとって吉川広家は義兄という事になりますかね。


さて、1582年の本能寺の変が起きた後

毛利家が豊臣家に臣従すると
毛利家は豊臣家に小早川秀包と吉川広家を人質に送ったそうです。

しかし、元春はうつけと言われた広家を手放したくなかったとも言われています。

ですが、すぐに毛利家に送られたので名目的な人質だったそうです。



それから1586年に元春が死去、翌年1587年には兄・元長が死去すると
兄・元氏は他家に養子となって家を出ていたので
三男である広家が吉川家を継ぐ事になります。

その際に毛利輝元により「広」の字を与えられ
吉川広家と名乗っております。

この時 広家 26歳です。


広家は小早川隆景亡き後の毛利家を支えたそうです。
ですが、彼の性格はどちらかというとズル賢い感じに映ったため
毛利家では安国寺恵瓊、豊臣家では石田三成とは仲が悪かったそうです。


それから父・元春が亡き後、隆景が広家の父代わりになります。

吉川家の文書には隆景が広家に対して
「羽柴との誓約を守ったからこそ、毛利家が豊臣政権下で安泰でいられる」と
言って聞かせたという記述があるそうですからね。


また、広家は秀吉の命令によって
肥後国人一揆鎮圧のため出陣しています。

この時、広家は黒田官兵衛と共に行軍し
知り合うきっかけになったのだと思われます。

それに黒田官兵衛と小早川隆景は
知り合いでしたから広家は隆景を通じて黒田官兵衛の事を
聞いていたのでしょうね。

それでかなり仲が良くなったらしく
たくさんの文のやり取りをした記録が残っているそうです。

これは黒田官兵衛の子・長政がバカ正直なくらいに真っ直ぐな性格だったのに対して
広家はひねくれ者というかずる賢いタイプだったのが黒田官兵衛としては
広家が息子だったらという思いがあったのかもしれません。


それをきっかけに広家は黒田官兵衛の子・長政とも知り合えたようで
これらの出会いが後々の関ヶ原にも繋がっていきます。


それから広家は朝鮮にも出兵し、加藤清正の救援に向かい
明・朝鮮連合軍を撃退する戦功を挙げたそうです。


そして、秀吉が亡くなると広家の下に黒田如水から文が届きます。


「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」


さて、それからは
関ヶ原に向けて天下は家康方と三成方に分かれるのですが

毛利家の当主・輝元は
わがままな御坊ちゃま気質でもあり
戦国時代にあっては似つかわしくないかなりのお人よしで
なんでもホイホイと相手の言う事に従うタイプだったようで

これには亡き叔父・小早川隆景も頭を悩ませていたくらいですからね。


石田三成と徳川家康との対立が表面化すると
広家は徳川家康に加担するように進言していたそうですが

輝元は広家らが知らないうちに
石田三成と安国寺恵瓊らによって西軍の総大将とされていたそうです。

安国寺恵瓊は広家を嫌っていたというのもあるのかもしれませんが
恵瓊は輝元が西軍の総大将になった以上、東軍につく事は主家に背く事となるので
最後まで石田三成と共に家康と戦うべきだと主張します。
そこに輝元の養子になった事もあった毛利秀元も恵瓊の主張にのっかったそうです。



これに対して広家は家康の勝利を信じていたそうで
そのためには主家に背いてでも家康方につく事を考えていたようで

広家は同じく毛利家の重臣である福原広俊・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直と協議し
重臣達の同意の下で広家は徳川家康に加担するために画策していったそうです。

ちなみに福原広俊の福原家は毛利元就の母の実家で
宍戸、益田、熊谷に関してはこんな系譜になります。



  熊
  谷        ┌────────┐  宍
  信        │        │  戸
  直        │        姉━━隆
  │        │           家
  ├──┐     吉           │
  │  │     川           │
  高  娘━━┯━━元           元
  直     │  春           秀
  │     │              │
  │     ├──┬──┬──┐     │
  │     │  │  │  │     │
  元     吉  繁  吉  │  益  元
  直     川  沢  川  │  田  続
        広  元  元  娘━━元  
        家  氏  長     祥 



そして広家はかねてより徳川家康に通じていた黒田長政を通じて
家康と連絡を取り、毛利家の所領の安堵という密約を取り付けたそうです。

これは広家の「独断」という事だそうですが
個人的には広家はあえて「独断」という形にしたんだと思います。

そうする事で毛利本家が傷つかないようにという配慮があったんだと思います。


で、そういう密約を取り付けた広家は
安濃津城攻めでは主力として奮戦したそうです。

これには黒田長政も唖然としたそうですが
これは味方に家康に内応した事を悟られないための演技という
この辺が広家のズル賢いところでしょうね。

それとこの活躍によって広家は
関ヶ原の合戦で毛利軍の先陣を任されたようで
広家は南宮山に陣を敷き、動かない事で広家の後ろに陣を敷く
毛利本軍の動きを封じます。


これに西軍の諸侯達が毛利本軍に来訪し、進軍するように言ったそうですが
毛利本軍の総大将・毛利秀元はこの動けない状況の言い訳として

「これから弁当を作って食べる」

と言った事で
ここから『宰相殿の空弁当』という言葉が生まれたそうです。


こうも広家が総大将である秀元に対して強気に出れたのは簡単に言うと年齢。

これに尽きますね。


どうも毛利家は年長の者が強く出れる傾向があるようで

この関ヶ原の合戦の時

吉川広家 39歳
毛利秀元 21歳

と二人には18歳の差がありますからね。


こうして毛利本軍が動けない間に合戦は家康の勝利となり毛利家は戦場を離脱。

合戦直後に広家は黒田長政に書状を送り、まもなく黒田長政・福島正則の連署で
「輝元は名目上の総大将に担ぎ上げられたに過ぎないから本領を安堵する」の
書状が毛利輝元に送付されたそうです。


ちなみに安国寺恵瓊は西軍首脳の一人として処刑されます。




これで毛利家も安泰と思っていたら

後日、黒田長政より
「家康からの毛利領安堵の密約は輝元が否応なしに総大将に担ぎ上げられた場合のみ。
しかし、大坂城から発見された西軍の連判状に輝元の花押があったと言う。
つまり、これは輝元が率先して西軍に加担していた証拠になる。
これでは毛利の所領は没収のうえ改易されるであろう」

「貴殿の忠節は井伊直政、本多正信もよく承知しており
毛利領のうち一、二ヶ国を与えるべく、ただいま家康に対して交渉中である」

と言った書状が届いたそうです。

これによると広家には周防・長門の二国が与えられ
一方、毛利本家は改易されるという内容のものだったようです。

これに対して広家は
毛利家の家名を残して欲しい事を嘆願し
そのために輝元に徳川家の忠節を励ますよう誓い
万が一、輝元が徳川に弓引くような事をすれば
自ら輝元の首を取って家康に差し出すと言った
起請文を家康に送ったそうです。

その後、家康は
周防、長門の二国を毛利宗家に安堵し
毛利輝元とその子・秀就の命を助ける旨の文を送ったそうです。



これによって毛利家は安堵されたのですが
結果的に毛利本家を裏切ったとして吉川広家と吉川家は
毛利家及び毛利の家臣達から「不忠者」「本家を売った男」「陪臣」として
幕末まで怨まれたそうです。


特に吉川家に対する恨みが強かったのが
毛利秀元と言われています。



  乃━━━┯━━━━━━━━━毛     妙
  美   │ 矢━┯━━━━━利     玖
  大   │ 田 │ 三━┯━元━━┯━━夫
  方   │ 氏 │ 吉 │ 就  │  人
      │   │ 氏 │    │  
      │   │   │    │
      │   │   │    │
      │   │   │    │
  ┌─┬─┤   │ ┌─┼─┐  ├─┬─┬─┬─┐
  │ │ │   │ │ │ │  │ │ │ │ │
  毛 天 穂   二 末 出 毛  小 吉 宍 毛 長
  利 野 井   宮 次 羽 利  早 川 戸 利 女
  秀 元 田   就 元 元 元  川 元 隆 隆
  包 政 元   辰 康 倶 秋  隆 春 家 元
      清            景 │ 夫 │
      │            │ │ 人 │
      │            │ │   │
      毛            秀 広   輝
      利            秋 家   元
      秀
      元



おそらく、秀元はもし自分が戦っていたら
西軍が勝っていたかもしれないという思いがあるのと
当時21歳というその若さがそう思わせたとこがあるのでしょう。



ちなみに、個人的には
小早川隆景が本家を守るために
秀吉の養子・秀秋を受け入れて関ヶ原の合戦後
秀秋が亡くなった事で小早川家は断絶となりましたが

後々振り返ってみたら
自らの家がどんな形になろうとも
吉川家と小早川家は本家を守るための盾となって
毛利本家を守ったんじゃないのかなと思えるんですけどね。



その後、広家は毛利家の藩政から退き
毛利秀元が毛利家の藩政を取り仕切るようになります。




ちなみに広家は毛利本家から最も離れた場所になる岩国領の領主となり
支藩として認められず幕末まで家臣として扱われます。

でも、幕府は広家を大名として扱ったために
参勤交代を行うという立場となったそうです。

このような嫌がらせも秀元の恨みから来たんでしょうかね。


しかし、広家の次男・政春は
吉見家の養子になっていた後に
輝元の命によって毛利就頼と改名し
彼の家系は長州藩一門家老の大野毛利家を創設した事

また、広家の嫡男・広正は毛利輝元の娘を正室に迎えた事から
毛利家が分裂しないように結構家中のバランスはとっているようです。


そして、1615年に
隠居して家督を子・広正に譲り岩国の開発に力を注いだそうで


1625年 65歳で亡くなったそうです。




ちなみに吉川家が岩国領の領主になった事については
もし、徳川と戦った際には東から来る徳川軍に対して
岩国が最前線となりますね。

それを鑑みて吉川家が毛利家の盾となるために配置されたという
思惑もあったんじゃないかと思いますね。


それと、徳川家にあっては大名
毛利家にあっては家臣という複雑な事情を受け入れたのも
毛利家に対する忠義の篤さがあればこそという広家の信念が
感じられるんですけどね。


ちなみに吉川広家を「不忠者」と蔑んでいた筆頭である
毛利秀元は広家や輝元が亡くなった後

幼い藩主の名代として幕府との交渉を務めたそうですが
その専横が強まり、それを受けて家中から非難され藩から失脚。

それから長州藩から独立を画策し
長州藩と度々対立を起こしているのですから

これではどちらが「不忠者」かと問い詰めたくなりますね。



そうそう、それと
徳川家康が毛利家に送った
周防、長門の二国を毛利宗家に安堵するという起請文


あれは毛利家を減封する意味合いの文章だったんですが


毛利家の当主の跡目相続で問題があり
毛利家が改易の危機に遭った際に

毛利家ではこの起請文を
「神君・家康公が毛利家の周防・長門の領有を認めた」として
幕府に提出し、これによって毛利家は改易を免れたというのですから


これを考えても広家のした事を
「不忠者」と斬って捨てるのは考えモノです ̄▽ ̄





さて、この広家のキャスティングに関して

ずる賢いひねくれ者ながら忠義の篤い人物を好演できる方として

加藤虎ノ介さんが適役ではないかと ̄▽ ̄ゞ



それから広家の父・元春は吉川晃司さんがいいかなと。

吉川晃司さんは吉川家の子孫だそうなんで ̄ノ▽ ̄



それから毛利輝元には茂山宗彦さん
黒田官兵衛には渡瀬恒彦さんと



まぁどこかで見た事あるようなキャスティングになってますけど
それもご愛嬌という事で ̄▽ ̄ゞ

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この記事へのコメント

キッド
2009年09月19日 19:40
ikasama4様、こんばんは。
一説によれば広家の母・新庄局は
器量が悪かったので有名。
そしてキッドの妄想によれば
広家の娘は隔世遺伝的器量だったです。
彼女が人質として大坂城に入ったのに
秀吉のお目見えがなかったのは
すべてこの遺伝によるものですが・・・
広家は側近・石田三成が意地悪をしていると
猛烈に思い込んだものと妄想します。
だから関ヶ原では絶対に三成にだけは
味方したくなかった・・・絶対にだ。
これが真相・・・妄想ですけど~。
ま、かっての荒武者も気がつけば一族の長老。
お家大事のあまりに画策したのに
裏切りもの呼ばわりはかわいそうですな。
まあ、その娘が益田氏に嫁し
次男は吉見氏の養子。
広家ははお家のためを一に考えていた気配がありますな。
ちなみにB子な娘は貫地谷しほり・・・でよろしいでしょうか。


SFurrow
2009年09月20日 07:14
四分の一長州人のSFurrowでございます~
こうして見ると広家は、裏切り者どころか、激動の時期に毛利家を滅亡させないように導いた救世主だと思いますが、秀元との確執もうなずけますね。親どうしは異母兄弟、そして師匠のおっしゃるような、微妙な歳の差(これが同年代ならばハッキリとライバルになるし、もっと違えば一応は親の世代として尊敬せざるをえないということになりますが)。
元春が熊谷家からブ●の嫁を貰った話は、内館牧子さんの大河のときも、詳しく描いていたと思いますが、嫁役の女優さんが別に●スでも何でもなかったんで、あまりインパクトが無かった記憶があります。こういう時はワンポイントで、それなりの(笑)強烈キャラ出演にしなきゃダメですよね~。で、この時の元春役が確か、B子のおとうちゃんだったはずなんですが、松重さんと和久井さんの出演も、もちろんアリですよね(^O^)
ikasama4
2009年09月20日 23:03
キッド様
こんばんはです。
>一説によれば広家の母・新庄局は
>器量が悪かったので有名。
そのようですね。
あくまで一説ではの話ですけど。

彼女の娘が秀吉にお目見えがなかったのは
そのせいだと考えれば納得ですが
石田三成が絡んでいたというとこで
考えると、後の関ヶ原が面白いものですね。

広家は御家を一に考えていたみたいだし
輝元もまた後の行動を考えると
広家の忠義を分かっていたと思えるとこも
ありますね。

>ちなみにB子な娘は貫地谷しほり・・・でよろしいでしょうか。
となると益田役には草々がいいですかね ̄▽ ̄ゞ
ikasama4
2009年09月20日 23:04
長州人クゥオーターのSFurrow様
結果を見れば、広家は御家を守った訳ですが
あの時、毛利軍が関ヶ原で戦っていた事を考えると
「たら」「れば」の世界ですが
秀元はその結果を受け入れる事が出来ずに
このような確執が生まれてしまったんでしょうね。

>元春が熊谷家からブ●の嫁を貰った話
吉川元春の逸話では最も有名な話ですからね。

で、吉川元春はその妻以外側室は持たなかったそうですが

その反動かどうかはともかく
広家はたくさん側室がいたみたいです ̄▽ ̄

そうですね。
松重さんと和久井さんの共演も全然アリですね ̄▽ ̄b
2013年02月16日 15:06
こんにちは。3年余も過ぎてのコメントです。慶長8年(1603)に大分の今津留(岡藩の飛び領地)は船奉行・柴山勘兵衛のところに人商人が16歳の女子を売りに来ました。即買い。よくよく聞いてみると、岩国の吉川のお姫さま。落城の折に母兄弟と別れ別れになってしまい、三原に辿りつく。そこでかどわかされたとのこと。勘兵衛は娘さんを岩国に送り届ける。殿さまはここ4、5年は家来に方々を探させていた。お姫様の名は高雄。
ここのコメントを拝読しますと、たぶん彼女もBs。これが幸いして買い手がつかなかったのかもしれません。勘兵衛には大層なお礼があったそうです。以上『柴山勘兵衛記』より。ただはぐれた時の戦はなんだたか御存じないでしょうか。
あい
2013年06月10日 23:36
たしかに、しっかりドラマ化して、屑野郎が真抜けにミスって本家を危機に陥れる様を描いて欲しいわな。
2019年05月08日 19:23
When I initially commented I clicked the "Notify me when new comments are added"
checkbox and now each time a comment is added I get three
e-mails with the same comment. Is there any way you can remove people from that service?
Cheers!
2019年05月30日 12:34
Hi, I check your blogs on a regular basis.
Your story-telling style is awesome, keep it up!

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