ドラマ化して欲しい戦国武将 「尼子経久」

今回は尼子経久でございます。

尼子氏は京極氏の支流で
尼子経久は1458年に三代目当主・尼子清定の嫡男として生まれます。

尼子家は京極家が守護を務める出雲の守護代として
京極家を補佐する家柄だったようです。


         京
         極
         高
         秀
         │
    ┌────┤
    │    │
    尼    高
    子    詮
    高    │
    久    │
    │    高
    │    光
    │    │
    │    │
    持    持
    久    高
    │    │
    │    │
    │    高
    │    数
    清    │
    定    │
    │    持
    │    清
    │    │
    │    │
    経    政
    久    経



こうして見ると尼子家の当主は
どうも本家筋に当たる京極家の当主の偏諱を受けているようですね。

Wikipediaで見る限り
経久は1474年に京極政経に人質として送られ
それから京に滞在し、その間に元服して政経の「経」の字を賜わり
経久と名乗ります。

人質となってから5年後の1479年に経久は出雲に帰国します。

ちなみに経久の父・清定を調べてみると
出雲で勢力を強めていたものの、晩年は浪人となり流浪のうちに
1478年に病死したとあります。

でもって1478年までに経久は父から家督を譲られたそうです。


という事は
経久、京へ人質⇒清定、浪人になる⇒清定、京に行って経久に家督を譲る⇒清定、死去

こういう流れでよろしいでしょうかね。


さて、出雲に帰ってきた経久は月山富田城を拠点にして
主家である京極政経の所領を横領したり、公用銭の徴収を拒否したそうです。

こうした背景には経久が
出雲の国人衆は尼子氏に従うものと考え
その力を背景にそんな事をしていたみたいです




さて、ここからは江戸の軍記モノに記されていた内容らしいのですが

1484年、京極政経は幕命により
命令違反する経久に対して討伐軍の命令を発し
反経久派の国人衆は幕命によって月山富田城を包囲し
経久は守護代の職を剥奪され、守護代の職は反経久派の
出雲の国人衆・塩冶氏が継ぎ、そのまま月山富田城の城主となったようです。


さて、月山富田城から追われ、守護代の職も奪われた経久は
流浪生活を送りますが、一方で月山富田城奪還を企てます。

経久は浪人生活の中で
かつての家臣で尼子家の分家筋とも言われる山中家、亀井家
更に飯母呂一族の流れを汲む鉢屋衆の協力もとりつけ

経久が追放されてから2年後の1486年の元旦
経久は100名を引き連れて月山富田城を強襲。

城主であった塩治氏は自害し
これにより経久は京極家から独立したと言われています。

経久 28歳の時です。


と、ここまでが軍記モノの内容で
それ以外の経久に関する資料は見当たらないそうです。

ただ、経久の息子は政久であり
主君・京極政経より偏諱を受けている事を考えると
経久は京極家によって出雲の地を統治する事を
認められたのではないかと言われております。


そして1488年に
主君・京極政経が近江での内紛に敗れて出雲に下り、経久は彼を庇護します。


それから30年近く、経久は出雲統一のために奔走します。

1508年 経久 50歳の時
京極政経が亡くなると経久は正式に出雲守護職に任命されます。

そして、幕府より三好氏の討伐令が下され、経久は幕命に応じて
京で三好氏と戦ったそうです。

1511年 京での将軍の争いのために周防の大内氏が上洛します。
それに経久も従ったそうです。

で、経久は大内氏との関係を友好的なものにしようとする一方で
反大内派の国人衆を支援しております。


そして1518年
経久は弟・久幸に伯耆国の南条氏を攻めさせ
嫡男・政久に国内で反乱を起こした桜井氏を攻めさせるのですが
長期戦の中、味方を鼓舞するために笛を吹いたものの
城方の兵が笛の音が聞こえる方向へ矢を放ち
それによって政久は即死したそうです。

政久は経久が将来を期待していたため、政久の死を悲しむと同時に
次男・国久に命じて桜井氏を攻撃
経久は降伏を許さず、将兵全てが虐殺されて¥たと言われています。

そして、政久の嫡男・詮久が尼子家の後継として指名されます。

尼子詮久、後の尼子晴久です。

この頃、経久は出雲での地盤を固めるために
次男・国久を吉田氏へ
三男・興久を塩治氏へそれぞれ養子に送っています。

この国久はとにかく戦が強く
国久が新宮谷に屋敷を構えた事から
国久が頭領として率いる部隊は新宮党と呼ばれたそうで
この後、経久のみならず、経久の孫・晴久も助け
多くの戦功を挙げ、尼子家の勢力拡大に大いに貢献します。

それから経久は大内氏の所領・石見を攻め取ったり
伯耆国、備後に侵攻したり、1525年には安芸の毛利氏の跡目争いに関与したりしてます。

この毛利家の跡目争いに勝利したのが毛利元就で
毛利家は尼子方であったのですが、この跡目争いを機に大内方になります。

この時から尼子家の劣勢が始まります。

伯耆・備後の守護職にあった山名氏が反尼子方となり
経久は大内氏、山名氏に包囲される形になります。
いわゆる尼子包囲網と呼べるべきものかもしれません。


その後、経久は備後の山名氏を支持する国人衆を攻めるも
大内方の援軍により敗走

備後の尼子方だった国人衆の大半は大内方に寝返ります。

更に1534年
経久の三男・塩治興久が反尼子派となった事で二人は戦います。

所領の不満が興久が兵を挙げた原因だと言われていますが
この内乱は大規模なものとなり4年も続きます。

この内乱に敗れた興久は自害します。

実の息子との戦いに興久に憎しみを募らせていましたが
興久の首を見て、あまりに変わり果てたその姿に嘆き悲しんだと言われています。

この時、経久 76歳

ですが、経久は孫の詮久に命じて大内氏と敵対している大友氏と結び
大内氏包囲網を形勢し、これにより大内氏と和睦します ̄▽ ̄



そして3年後の1537年に
経久は孫の詮久に家督を譲り、大内氏の所領・石見を攻め石見銀山を奪取します。



それからの経久の行動は不明ですが
その後の尼子家は東へ勢力を拡大するものの
大内氏が大友氏と和解し、大内氏は尼子家との和睦を破棄し
尼子氏が占領していた石見銀山を奪い返し安芸の尼子方の国人衆を攻めていきます。

その尼子方の国人衆の助けるために詮久改め晴久は1540年に安芸へ出陣
大内方へ寝返った毛利元就を攻めますが失敗。

その後、大内氏の援軍により尼子氏は敗退します。

そして大内・毛利らが撤退する尼子氏を追撃する中
尼子経久の弟・尼子久幸が当主・詮久を逃がすために
68歳で敵陣に突入し、戦死しています。


その翌年の1541年
経久は月山富田城で84歳で亡くなります。




経久は「謀聖」「謀将」と呼ばれる程の謀略家だったそうです。
まぁ江戸の軍記モノの影響も多分にあるんでしょうけど。

一方で経久は「天性無欲正直の人」と評されたそうで
なんでも家臣が経久の持ち物を褒めると、とても喜んで
それがどんな高価なものであっても

例えば衣服、太刀、馬、鞍でもなんでも家臣に与えてしまい
おかげで経久は冬では薄綿の小袖一枚だけしか着てなかったそうです。

まぁ本人はお構いなしだったみたいですけど ̄▽ ̄

そのため、家臣達は経久の持ち物は褒めないで、ただ見ていたそうです。


そして、ある家臣が経久の庭の松の木を褒めても大丈夫だろうと思って
松の枝を褒めたら、経久はその松を掘りこして家臣に渡そうとしたそうで
慌てて周囲の家臣達がそれを止めたそうです。


ですが、経久は数日後
その松を切って松明にして家臣に与えたそうです。



尼子経久はとにかく若い頃に苦労して出雲の国主になったという事で
家臣や民の事をよく思っていたとして

毛利家の史書にそのように書かれていたそうです。


敵である毛利家にこのように評されるとは経久はかなりの人物だったようです。





民や家臣を思う優しさと謀略家としての冷酷さとの二面性を併せ持つ尼子経久

そんな経久を演じてもらうとすれば

自分の中で真っ先に浮かんだのが小市慢太郎さんです。

でも、彼は鉢屋衆の当主でも十分いけそうですけど ̄▽ ̄ゞ


他は佐藤浩市さんとか中井貴一さんとかで
ガッツリと見せて欲しいです ̄▽ ̄b

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この記事へのコメント

キッド
2009年08月16日 10:47
ikasama4様、おはようございます。
里帰りご苦労様でございます。
尼子ということでふと「毛利元就」(1997年)を思い出しました。
元就・中村橋之助で経久・緒形拳でしたな。
キッドは何故か「武田信玄」(1988年)の中井貴一が
頭の中でスライドして
元就・中井貴一、経久・緒形拳という妄想キャスティングが
完成していたので
「風のガーデン」が別の意味で面白かったのです。
誰にも言えないので画伯に告白しておきます。
そういう意味で経久には緒形直人。
毛利元就に中井貴一という配役で見てみたいです。
尼子家は近江源氏犬上尼子ですが
出雲は天国ですから天子系の伝統もあります。
このあたりも妄想膨らみますな。
出雲の家来衆には宇多源氏佐々木の流れである湯氏から
亀井茲矩が出るわけですが
彼はちょうど今朝鮮戦役で朝鮮海賊の火矢に射落とされて
危なく溺死しそうになっている頃です。
ちなみに犬上甲良は藤堂高虎の故郷ですし
甲良氏とか幻の左氏源流である藤原御子左の流れとか
近江-出雲の闇の道は妄想とめどなくなのでございます~。
ikasama4
2009年08月16日 23:24
キッド様
こんばんはでございます。
本日、帰って参りました。

私も経久を書くに当たって
真っ先に緒形拳さんを思い出しました。

緒形直人さんですかぁ。

いいですねぇ。
是非それでも見てみたいですね。

ちなみにその線でいくのなら
「風のガーデン」繋がりという事で
経久は緒形幹太さんがいいかなとも思います。


近江-出雲は謎がいっぱいで
ホント妄想にはこと欠きません ̄▽ ̄

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