ドラマ化して欲しい戦国武将 「朝倉宗滴」

今回は朝倉宗滴でございます。
誰よと思われるかもしれませんが
彼は朝倉家の当主三代に仕えた名将でございます。



宗滴の事を語る前に例によってまずは朝倉家と
宗滴の父・孝景のことを。



朝倉家というのは
越前・遠江・尾張を守護する斯波氏の守護代
つまりは斯波氏の家臣だった訳ですね。



それから斯波氏を補佐する守護代には
朝倉氏以外には甲斐氏、織田氏がおりました。


しかし、主である斯波氏よりも
守護代である織田氏や甲斐氏、朝倉氏が
その力を強めてきます。

特にこの頃は甲斐氏の力が強く
専横がひどかったとされています。


そして、朝倉家7代目の当主・孝景の時代に

守護である斯波義敏と守護代・甲斐氏との間で戦が勃発します。


この戦において朝倉家の家中は
斯波派と甲斐派に割れるのですが
孝景は甲斐派につき、斯波方についた朝倉一族を悉く討ち果たします。

そして斯波義敏は足利将軍の講和を無視して戦を続けたため
将軍の怒りに触れ、中国地方に没落していき

孝景は当時、幕府内でかなりの力を持っていた守護大名・山名宗全と協力して
1461年、孝景が33歳の時に足利庶流である斯波義廉を斯波家の当主にします。

これにより孝景は越前での地位を固めると共に
朝倉一族の中での発言力を強めていきます。


ですが、幕府政所執事・伊勢氏が斯波義廉から
斯波氏の家督を奪い、周防に逃れていた斯波義敏を
京に呼び戻して斯波氏当主として復帰させます。

これに対して孝景は山名宗全と
美濃守護職にあった土岐氏と協力して
伊勢氏、斯波義敏らを京から追放し斯波義廉を斯波氏当主として復帰させます。


それからまもなく
1467年に応仁の乱が始まると孝景は西軍について戦います。

孝景はとにかく戦が強かったみたいで
主要な戦ではほぼ勝利を収めております。

応仁の乱においても連戦連勝を重ね、東軍を苦しめたそうです。

また、孝景の弟達も戦に強かったようで
応仁の乱では大いに活躍し、特に景冬は京で「朝倉の小天狗」と呼ばれていたそうです。


          ┌───┬───┬───┐
          │   │   │   │
          景   光   経   孝
          冬   玖   景   景


そうして、西軍として戦ってきた孝景ですが
1471年に東軍の将軍・足利義政と管領・細川氏から
守護職の権利を行使する密約をあげると言われると東軍に寝返ります。

この事に越前の守護代にあった甲斐氏が反発し
甲斐氏と戦い、勝利を重ねる事で

越前での朝倉氏の実権を確実にしていきます。


更に孝景は越前でその力をつけるために
越前にある公家の所領や寺社の所領を奪い
自分のものにしていきます。

この事により公家や僧侶達からは
孝景は「天下一の極悪人」と称されております。


まぁ公家や僧侶からしてみれば
国の制度によって今までその所領から
収入を得る事を認められていたのですからね。


それは怒るのも当然ですが
当の孝景にしてみれば守護代でありながら
戦でもって守護職を奪い、自分の力を強めるためならば何でも利用した
まさしく下克上の典型である大名な訳ですから

「文句があるんだったら実力で奪ってみろ(゚Д゚)」
みたいな感覚なんでしょうね。

ちなみに孝景のやり方に反発したお寺の方々は
門徒を集めて徒党を組んでいきます。
後の一向宗です。



で、宗滴は1477年にその孝景の末子として誕生します。
正室(継室)との子のようです。


                      朝
                      倉
                      広
                      景
                      │
                      │
                      高
                      景
                      │
                      │
                      氏
                      景
                      │
                      │
                      貞
                      景
                      │
                      │
                      教
                      景
                      │
                      │
                      家
                      景
          ┌───┬───┬───┤
          │   │   │   │
          景   光   経   孝
          冬   玖   景   景
                      │
    ┌──┬──┬──┬──┬──┬──┤
    │  │  │  │  │  │  │
    宗  景  景  時  教  景  氏
    滴  明  儀  景  景  総  景


孝景が49歳の時の子なので
かなり可愛がったのでしょうね。

宗滴は幼名を「小太郎」と名づけられます。

で、この宗滴は実は末子でありながら
朝倉家の嫡子として扱われていたのではないかと言われています。


それらを主張する根拠として


六代目当主・家景 小太郎

七代目当主・孝景 小太郎

八代目当主・氏景 阿君

宗滴 小太郎

と宗滴が六代目当主と七代目当主と同じ幼名を名乗っている事




そして、 宗滴は出家した際の名前で
出家する前は「教景」と名乗っておりました。

で、その名前で
五代目当主、六代目当主、七代目当主と「教景」を名乗っていたから
というのが理由だそうです。


                      朝
                      倉
                      広
                      景
                      │
                      │
                      高
                      景
                      │
                      │
                      氏
                      景
                      │
                      │
                      貞
                      景
                      │
                      │
                      教
                      景
                      │
                      │
                      教
                      景
                      ↓
                      家
                      景
                      │
                      │
                      教
                      景
                      ↓
                      孝
                      景
                      │
    ┌──┬──┬──┬──┬──┬──┤
    │  │  │  │  │  │  │
    教  景  景  時  教  景  氏
    景  明  儀  景  景  総  景
    ↓
    宗
    滴


まぁ真偽の程は分かりませんが
この名前から見ても宗滴は父親から愛されていたんだなっていうのが感じられます。

ちなみに宗滴には「教景」という兄がおりましたが
宗滴が7歳の時に亡くなります。

正確には殺されます。

宗滴の兄でもある景総の手によって(; ̄∀ ̄)

というのも景総は妾腹の子で教景は正室の子であり
そのために弟よりも下座に扱われるなど
不当な扱いを受けたと考え、そのために
景総は教景を殺害したそうです。



まさしく昼ドラみたいな展開です(; ̄∀ ̄)


まぁあくまでWikipediaの情報を
鵜呑みにすればの話なんですけどね(; ̄∀ ̄)ゞ



それから1481年に孝景は53歳で亡くなり
その後を孝景の嫡男で宗滴の兄・氏景が朝倉家の家督を継ぎます。

この時、宗滴は4歳です ̄▽ ̄

氏景は父が築いた越前の支配権を確実にするために
一向宗と対立関係にあったお寺と友好関係を結んだり
美濃の斎藤氏と協力して斯波氏の子を擁立して足利の姓を名乗らせ
公方にし、朝倉氏がその公方の補佐をするという事で
朝倉氏が越前を支配する大義名分を得たそうです。

そうして、朝倉氏の基盤を固めていった氏景ですが
1486年に38歳で亡くなります。

この時、宗滴は9歳です ̄▽ ̄


                      家
                      景
          ┌───┬───┬───┤
          │   │   │   │
          景   光   経   孝
          冬   玖   景   景
                      │
    ┌──┬──┬──┬──┬──┬──┤
    │  │  │  │  │  │  │
    宗  景  景  時  教  景  氏
    滴  明  儀  景  景  総  景
                      │
                      │
                      貞
                      景


で、朝倉家は氏景の子・貞景が13歳で家督を継ぎます。

貞景もまた父と同じく越前の支配権を確実にするために
美濃の斎藤氏の娘を娶ったりしておりますが

10代将軍・義材(義植)に対しては
彼の出兵命令は何度か断っていて

管領・細川氏が将軍・義材に対してクーデターを起こした際に
貞景は細川氏に手を貸しています。

結果、細川氏のクーデターは成功し
細川氏が推す足利義澄が11代将軍となり、越中に逃れていきます。


で、1493年
前将軍・足利義材が上洛するとして越中・加賀の兵を連れて
越前に侵攻してきたので貞景をこれを迎撃します。


この年、16歳の宗滴はこの戦で初陣を飾っております。


1494年には美濃国で内乱があり
貞景は斎藤氏との婚姻関係から兵を送ります。
この時、宗滴も参戦しております。


この年、前将軍・足利義材が貞景を頼って越前にやってくるのですが
貞景は上洛して義材を将軍にする事を拒否し

そのために義材は大内氏を頼って周防まで落ち延び
そのことが原因で貞景は義材派の細川氏や加賀・本願寺の門徒達と
対立するようになっていったそうです。

そんな中で朝倉氏を内部から混乱させようとする者がいました。


宗滴の兄・景総です。



弟を殺害した後、寺に逃げて剃髪して謝って
朝倉家に仕えるようになったそうなんですが

教景と宗滴の母(孝景の妻)は根に持っていたみたいで
景総は越前を出奔して京に出て細川氏に仕えます。


その間、宗滴(この時は教景)は
「朝倉の小天狗」と呼ばれた景冬の娘を妻に迎えています。


で、1503年には
細川氏は朝倉氏と対立していまして

景総は越前に向かい、朝倉氏の一族で
景総の娘を妻にしている朝倉景豊と
景冬の娘を妻にしている朝倉宗滴(この時は教景)らに
朝倉貞景を攻撃しようと持ちかけます。

これはもう謀反ですね ̄▽ ̄


                      家
                      景
          ┌───┬───┬───┤
          │   │   │   │
          景   光   経   孝
          冬   玖   景   景
          ├─┐         │
          │ │         │
          景 │         │
   娘━━━━━━豊 │         │
   │        │         │
   │ ┌──────┘         │
   │ │                │
   │ │ ┌──┬──┬──┬──┬──┤
   │ │ │  │  │  │  │  │
   │ 娘━宗  景  景  時  景  氏
   │   滴  明  儀  景  総  景
   │               │
   └───────────────┘



で、景豊は景総の企てに同意するのですが
教景はそれを断るために出家し、「宗滴」と名乗り
主・貞景に景総、景豊の謀反の計画を報告します。

この時、宗滴 26歳。

これにより貞景は景豊を攻め、景豊を自害に追い込みます。

景総は景豊の救援に駆けつけたのですが
景豊自害の報を聞いて、退却しますが

翌年の1504年には景総は加賀国に向かい、加賀で反朝倉の兵を挙げて越前に攻め込みます。

朝倉宗滴は兄・景総を撃退し
敗れた景総は能登国に行き、その地で息を引き取ります。

ただ、加賀国を支配する一向宗は度々越前に侵攻していたみたいで
その都度、朝倉氏が撃退していたみたいなんですが


1506年
加賀の一向宗が反朝倉派の浪人達も巻き込んで越前に侵攻してきます。

その数、30万以上

これは相当誇張されてると思いますがかなりの大軍だったんでしょうね。


対する朝倉軍は1万程度

その大将は朝倉宗滴。

九頭竜川一帯で繰り広げられた戦いで
宗滴は勝利を収め、一向宗は加賀に撤退します。

とにかく凄まじかったんでしょうね。


朝倉家の家臣は武勇に優れた者が多かったそうで。


後に織田信長・徳川家康が浅井・朝倉と戦った
姉川の合戦で戦死した朝倉家家臣・真柄直隆は
戦場においては常に五尺三寸(約175センチ)の太刀を振り回して戦ったそうで。

その後、彼の太刀は
熱田神宮宝物館に所蔵されているそうですが
その太刀は長さが221cm、重さが約4.5kgなんだそうで。

斬馬刀かよ(゚Д゚)
みたいな業物ですね。


越前には優れた刀工が集まっていたそうですから
かなりの業物が作られていたんでしょうね。

だから、朝倉軍はかなり強かったものと思われます。



そして翌年の1507年には
宗滴は加賀国に攻め込み、戦功を挙げています。




それから1512年に朝倉貞景は急死し
朝倉家の家督を貞景の子・孝景が継ぎます。

以降、宗滴は朝倉家の政務・軍事を取り仕切るようになります。



                      孝
                      景
                      │
                      │
    ┌──┬──┬──┬──┬──┬──┤
    │  │  │  │  │  │  │
    宗  景  景  時  教  景  氏
    滴  明  儀  景  景  総  景
                      │
                      │
                      貞
                      景
  ┌───┬───┬───┬───┬───┤
  │   │   │   │   │   │
  景   道   景   景   景   孝
  延   郷   紀   郡   高   景


ちなみに孝景と名乗ったのは
孝景の曽祖父・孝景の強さ、功績にあやかったためだそうです。


宗滴はこの孝景を補佐し、以降
主だった朝倉家の戦では宗滴が参戦しまくりです。


1517年 宗滴 40歳
幕命により、若狭・丹後へ出陣。若狭・丹後の反乱軍を鎮圧


1525年 宗滴 48歳
六角氏と共に美濃の内乱に介入した浅井氏を攻め
その後、六角氏と浅井氏との間を調停し、浅井氏を従属させるような形で同盟を締結
浅井の居城・小谷城に「金吾丸」と呼ばれる曲輪を築く(「金吾」は宗滴の別名)


1527年 宗滴 50歳
近江に逃れていた将軍・足利義晴の求めに応じて
一万の兵を率いて上洛。細川氏と協力して三好勢と戦い、勝利を収める


1531年 宗滴 54歳
加賀国に出陣して、一向一揆衆と戦うも敗れて撤退
これが生涯でただ一度の負けだそうです。


1544年 宗滴 67歳
美濃国に出陣。織田信秀と共同で斉藤道三と戦う。



1548年 宗滴 71歳
朝倉孝景死去。家督を孝景の子・義景が継ぎ
宗滴は義景を補佐します。

朝倉義景は


1555年 宗滴 79歳
加賀国に侵攻。次々と一向一揆衆を打ち破るも
陣中で病に倒れ、越前・一条谷に帰還。


79歳とも言われていますが
生年を1474年とする説もあるので+3歳の
享年82歳という説もあるそうです。



こうして見ると宗滴は
貞景・孝景・義景と朝倉三代に仕え
その数々の戦に参戦している武将という事ですね。


                      教
                      景
                      │
                      │
                      家
                      景
          ┌───┬───┬───┤
          │   │   │   │
          景   光   経   孝
          冬   玖   景   景
          │           │
          │           │
          景           │
          豊           │
                      │
    ┌──┬──┬──┬──┬──┬──┤
    │  │  │  │  │  │  │
    宗  景  景  時  教  景  氏
    滴  明  儀  景  景  総  景
                      │
                      │
                      貞
                      景
  ┌───┬───┬───┬───┬───┤
  │   │   │   │   │   │
  景   道   景   景   景   孝
  延   郷   紀   郡   高   景
                      │
                      │
                      義
                      景




とりあえず、孝景の名が重複していますので法名から
宗滴の父・孝景を「英林孝景」
貞景の子・孝景を「宗淳孝景」と区別します。




                      家
                      景
          ┌───┬───┬───┤
          │   │   │   │
          景   光   経   英
          冬   玖   景   林
          │           孝
          │           景
          景           │
          豊           │
                      │
    ┌──┬──┬──┬──┬──┬──┤
    │  │  │  │  │  │  │
    宗  景  景  時  教  景  氏
    滴  明  儀  景  景  総  景
                      │
                      │
                      貞
                      景
  ┌───┬───┬───┬───┬───┤
  │   │   │   │   │   │
  景   道   景   景   景   宗
  延   郷   紀   郡   高   淳
                      孝
                      景
                      │
                      │
                      義
                      景



とにかく、宗滴は強くその名は周囲に鳴り響いていたため
朝倉家と誼を通じようとする大名、公家が多かったそうです。




また、宗滴は大将でありながら
自ら刀を持って戦ったそうですし、自らが敵将の首をとっても
それを家臣や足軽にとらせてそれを家臣・足軽の功としてあげたらしく
それがために宗滴は家来・足軽にも慕われていたそうです。



また、宗滴が武将としての教訓を語った言葉を側近の者が書き記した「朝倉宗滴話記」


ここに書かれている一説で

「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」
(武士は犬・畜生とも言われようとも、勝つ事こそが肝要である)

この言葉が有名でございます。



如何なる非難を浴びようとも
如何なる手段を使おうとも
勝てばそれでよし



この言葉から宗滴が戦に対する哲学をうかがい知る事が出来ます。


また、宗滴が語ったものには
人使いが上手い大名の手本として
駿河の今川(義元)・甲斐の武田(信玄)・三好(長慶)
越後の長尾(景虎)・安芸の毛利(元就)・織田上総介(信長)
関東正木大膳亮(正木時茂)

人使いの下手な大名の手本として
美濃の土岐(頼芸)・周防の大内(義隆)・細川晴元を挙げています。

でもって、ある書籍では
すぐ死んでも言い残すことは無いが後三年は生きて
織田上総介(信長)の行く末をもう少しだけ見てみたいと
宗滴が語ったと言われています。

信憑性はともかくとして宗滴は東は関東、西は周防と
幅広く情報収集しておりますね。




また、宗滴の死後、朝倉家は
当主である義景が政務全般を取り仕切るのですが

後に女と酒に溺れ、政務をないがしろにしたと言われ
それがために滅んだとも言えなくもないです。



この朝倉家の隆盛は
宗滴あってのものだといっても過言ではありません。


また、教養にも優れていたそうですからね。

戦に強く武芸にも秀でている中に教養が感じられる方


そんな宗滴には
平岳大さんがいいかなぁって思います。

もちろん1年を通じて演じて欲しいですが


例えば物語前半は平岳大さんで
でもって後半は平幹二朗さんってのもアリですかね ̄▽ ̄





で、次は浅井亮政・久政・長政と
浅井三代で取りまとめてみる予定です。

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この記事へのコメント

キッド
2009年08月01日 06:13
朝倉氏は実在さえ疑わしい景行天皇の子孫説まである
ぶっとんだ一族ですが
とりあえずどこかで天皇家の血を引いている・・・と思われます。
妄想的には日本武尊の血脈ぐらいでもいい感じ。
だから平親子の宗滴リレーとてもよろしいですなぁ。
なんとなく従妹妻は沢尻エリカがいいような気がします。
ななみもいいかもです。
プロレスラーやこち亀両津が語る
「卑怯・汚いは敗者の戯言」の原点の人ですから~。
最後の戦いとなる加賀一向一揆との戦いは
上杉謙信との共同作戦。
お互い勝利の鬼なので・・・そりゃもう・・・。
謙信の裏切り暗殺ならばヒットマンは若き飛び加藤かもしれません。
ともかく加賀で敗れて25年間の宿敵・・・執念です。
このあたりは・・・平(父)がやはり味があるかもしれません。
とりあえず・・・お相撲さんをそろえた
阿修羅な宗滴力士軍団の妄想が膨らみます。
ううん・・・怪力無双だ。
お中元として甲斐姫参考資料をアップしました。
コチラ→http://kid-blog.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/hc_1c98.html
例によって期間限定で消滅するので
よろしくお願いします。


SFurrow
2009年08月02日 09:23
浅井家のほうはお市の嫁ぎ先というのと、三姉妹の父ということで、ある程度イメージがありますが、朝倉家は、義景しか知らなくて、それも浅井と一緒に信長に負けちゃってドクロの杯になったヒト…というくらいしか知りません(汗)
へぇぇ~そんな歴史があったんだと目からウロコです。
平親子共演、素晴らしいアイデアでございます。昔「徳川家康」を市川右太衛門&若かりし北大路欣也の親子でやっていましたが、平親子も、いろんな歴史ドラマでいけるんじゃないでしょうかねぇ。

トピずれですが、「極楽家族」探していただいて有難うございました!!20年じゃなく30年も前でしたね。その後のアレンジ版のほうは全然知りませんでした。老人介護と老人詐欺は、今後TVドラマの大きなジャンルになっていく予感がします。刑事ドラマでは、鑑識ものがやたらに増えましたね。
ikasama4
2009年08月02日 13:52
SFurrow様
朝倉家には先祖を辿ると
「宿禰」の文字が見える事から
怪力無双のツワモノの血を引いていても
全然おかしくはないですからね。

上杉謙信との共同作戦

でもって、そこで起きる裏切り。

実に楽しいですねぇ ̄▽ ̄


それから御中元
どうもありがとうございます。

感謝感謝でございます≧∇≦b
ikasama4
2009年08月02日 13:53
SFurrow様
自分も朝倉家は結構名門って
イメージがあったんですが、そこまで
朝倉家を押し立てたのはこの宗滴の存在があったからなんでしょうね。

こういうキャスティングもいいかなと
思ったもので皆さんに気に入って頂けて何よりです ̄▽ ̄ゞ

おそらく「極楽家族」なんでしょうね。
調べてみるとかなりの良作らしいです。

最近は光テレビでNHK良作を見せるとこが
あるそうなので、そこで見れるかもしれません。

>刑事ドラマでは、鑑識ものがやたらに増えましたね。
そうですね。
これも一種のブームですね ̄▽ ̄
2019年05月08日 11:26
This post will assist the internet users for setting up new blog or even a weblog from start
to end.

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    Excerpt: ドラマ化して欲しい戦国武将 「朝倉宗滴」 渡る世間は愚痴ばかり/ウェブリブログ Weblog: プラダ メンズ racked: 2013-07-09 20:25