ドラマ化して欲しい戦国武将 「細川幽斎」

結構、有名な方だとは思いますが
この方は調べれば調べる程に面白いですねぇ。

なんにしてもこの方は逸話とかが多いですね。
特に戦国武将としてのスゴさというよりも

この方の面白さが前面に出ているような感じで。


特に茶道、和歌に関しては当代随一の教養があって
句を読み上げるのに時間をかける事なく他の者が前の句を
考える前に句を考えてしまうくらい見事なものだったらしく

武家・公家・町人を問わず
彼の下には多くの弟子がいたそうです。


その中で個人的に一番に面白い話が関ヶ原での細川さんの話ですね。


関ヶ原で兵を挙げた石田三成はまず細川忠興の妻・細川ガラシャの身柄を
抑えようとしたのですが、彼女は自害します。

そこで、今度は忠興の居城・田辺城を攻める事を決め
西軍の諸将1万5千の兵でもって田辺城に向かいます。

その城を守るのは細川忠興の父で出家して細川幽斎と名乗っていた藤孝と500の兵。


やはり兵力の差は如何様にしがたく田辺城は落城の危機に陥りますが
西軍はあまり積極的に城を落とそうとはしなかったそうです。


というのも、西軍の諸将の中に幽斎を歌の師と仰ぐ弟子の方々が多かったからと言われています。






この状況に一番驚いたのは実は朝廷、すなわち天皇でした。


ちょっと話が変わりますが
朝廷では和歌や和歌に関する学問を「歌道」といい
そこでは歌道の師範を務める家柄があったそうです。

その中のひとつ、二条派では「古今和歌集」の和歌に関する解釈の説明が
「古今伝授」として継承されていったそうです。

「古今和歌集」はこの時代
和歌の規範になっていたそうで
この「古今伝授」は最も権威があるものだったそうです。


1570年代、その「古今伝授」の継承者は
三条西家の実枝でした。

ただ、彼は高齢で子が幼かったので
一時的に弟子である細川藤孝に伝授したそうです。

その時の約束は
・たとえ細川家の嫡男といえども絶対に他人には伝授しない事
・三条西家に相伝が断絶するようなことがあれば責任をもって伝え返すこと


それで藤孝は「古今伝授」を継承し
実枝の子が成人した折に「古今伝授」を継承しようとしたのですが
その子が夭折してしまい、幼い子・実条が残されましたので

藤孝は実条が成人するまで「古今伝授」の唯一の継承者となりました。



その藤孝が田辺城落城で死んでしまうかもしれないという事は
「古今伝授」の継承が絶たれる事になるからです。



そこで天皇は家臣に命じて幽斎を助けるために奔走します。



これまで戦国時代・安土桃山時代において
武士達の争いに関与しないのが朝廷の暗黙の了解だったそうですが
朝廷はその破って、たった一人の男の命を救うべく動いたというのですからね。


それから朝廷は前田玄以を通じて、西軍と交渉し、その協議により
「田辺城を開城すれば命を助ける」という事で話がまとまったそうで。

朝廷は急ぎ家臣を田辺城に送り、幽斎の事の次第を説明したのですが

当の幽斎は

「武士としての面目が立たん(゚Д゚)」

とか言って、その和睦を拒んでしまったそうです。


で、困ったのは田辺城の攻め手の方々。


和睦となるはずが当の幽斎が和睦を拒んだ事で
田辺城の包囲を解く事が出来ませんでした。


もし、包囲を解けば他の武士から罵られるでしょうし
もし、攻め落とせば朝廷の御威光を踏みにじったとして怒られるでしょうし


どうにもこうにも出来ないまま、この状況で二ヶ月が経過(笑)


そこで朝廷はどうしたかというと

天皇は幽斎の弟子である三人の公卿を勅使として

田辺城を開城して細川幽斎の命を助ける事を
勅命(天皇の御言葉・命令)としたというのですからね。






流石の幽斎も勅命とあって、これに従い
田辺城は開城されることになったそうです。



天皇が一人の人物を助けるためにここまでしたというのは
聞いた事がありません。

それだけ彼はその才能とかを愛されていたという事でしょうかね。


ちなみにこの戦で西軍の兵1万が足止めされたことで
関ヶ原に間に合わず、この幽斎の行動は相応の働きがあったという事になりますかね。




この方のお話はこれに留まらずたくさんあります。


また、和歌・歌道のみならず
一刀流の塚原卜伝から剣術を学び
弓術、馬術の腕前にも優れた武芸者だそうで

京の路上で突進してきた牛の角をつかんで投げ倒した話とか



とある門番の手を握ったところ
門番はあまりの強さに悶絶して倒れ
その痛みを癒すために有馬温泉に湯治に行ったとか

そういう逸話もありますからねぇ。





簡単に彼の経歴を辿ると
細川藤孝は将軍家側近・三淵晴員の次男として生まれます。

三淵晴員は足利家一門の細川家からの養子だったので
藤孝は細川家の養子となります。



      三
      淵
      晴
      員
      │
   ┌──┤
   │  │
   細  藤
   川  英
   藤
   孝


ここで面白い説があって
藤孝と兄・藤英は腹違いの兄弟なので


      三
  後   淵   前
  妻━┯━晴━┯━妻
    │ 員 │
    │   │
    │   │
    │   │
    細   藤
    川   英
    藤
    孝


こういう構図になるんですが
その藤孝の母(後妻)である女性は

時の将軍・足利義晴から下げ渡された女性だったそうで。


なので


足       三
利   後   淵   前
義━┯━妻━━━晴━┯━妻
晴 │     員 │
  └───┐   │
      │   │
      │   │
      細   藤
      川   英
      藤
      孝



という事で藤孝は足利義晴の子ではないかという
という説があるそうです。


もし、この説が正しければ
藤孝は足利義輝と足利義昭の兄という事にもなります。



それから藤孝は幕臣として足利義輝に仕えます。

この足利義輝はかの上泉信綱と塚原卜伝から剣を学び「剣聖将軍」と称された方です。

おそらく藤孝はこの頃に塚原卜伝に剣を学んだと思われます。


この時期、足利義輝は三好氏と争っていました。
そこで三好氏が送った刺客により足利義輝暗殺未遂事件があったらしいですし。



そして1565年
三好氏家臣・松永久秀にによって三好三人衆が謀反を起こし
足利義輝がいる二条御所に襲撃します。

足利義輝は自分が持っていた数々の刀を床に刺し
敵兵を数々斬り殺し、その刀が折れるや
床に刺していた別の刀で応戦したそうで

しかし多勢に無勢

足利義輝は討ち死にします。


そして、藤孝はというと兄・藤英と和田惟政ら義輝の側近だった者と共に
三好らによって幽閉されていた義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)を
救出して近江に潜伏します。


それから間もなく覚慶は還俗して足利義秋と名乗り
将軍家再興のために奔走します。

そこで自分の後ろ盾となってくれる諸侯を探しました。

最初は南近江の六角氏
それから若狭の武田氏
そして越前の朝倉氏と足を運びますが
諸侯は動いてくれませんでした。

そんな時、義秋と藤孝は一人の人物と出会います。


それが明智光秀です。


その後、義昭は明智光秀の仲介により織田信長の助力を得て上洛
将軍となりますが

足利義昭と信長との対立が表面化すると
藤孝は信長につき、以降
信長の配下の武将として働きます。

そして兄・藤英は義昭につきますが
足利義昭が京から追放されると信長に仕えることになりますが
その翌年、信長の命によって息子共々自害させられます。

兄には他に幼い子がいたそうですが
その子は藤孝に預けられて、細川家に仕えたそうで。


それから藤孝は明智光秀との親交が深く
藤孝の息子・忠興と光秀の娘・玉子との婚儀を結び
縁戚関係になっておりました。



でもって、それから藤孝は
織田信忠を大将として松永久秀が篭る信貴山城に参戦してます。
松永久秀は足利義輝を殺害した黒幕ですからね。






そして1582年
明智光秀は本能寺の変を起こし信長を殺害し
彼は細川藤孝らを味方になるように文を送ります。

この頃、藤孝にとって光秀は織田家家中では上司でありました。

しかし、藤孝は光秀の要請を断り剃髪して幽斎と名乗り
息子・忠興に家督を譲り隠居します。

そして忠興は妻・玉子を丹波の屋敷に幽閉したそうです。




その後、幽斎は秀吉側近として
息子・忠興は秀吉のために働いたそうです。


それから、秀吉は丹後の一色義定が謀反を起こそうとしていると藤孝に告げたそうです。
一色義定の妻は藤孝の娘です。

もしかしたら、秀吉が自分への忠誠を示すために細川氏を試したのかもしれませんが
藤孝は息子・忠興と図って一色義定をだまし討ちにし
一色義定が率いた兵もろとも悉く殺害したそうです。




それから幽斎は九州征伐にも武将として参加したそうですが
この時、島津家当主・島津義久と知り合い義久は幽斎の弟子になったとも言われています。


そして、秀吉が亡くなると幽斎と忠興は徳川につきます。

その理由として忠興が武功派の大名であり
石田三成と対立していたという事もあるのでしょうが

豊臣秀次が処罰された折に
謀反連座の疑いをかけられた事

特に秀次の謀反連座の疑いに関して
その容疑をかけられた方は伊達政宗、最上義光、中村一氏、山内一豊等々

これらの方々は関ヶ原でみな東軍につきましたからねぇ。


また、幽斎は千利休とも親しく
幽斎の息子・細川忠興は利休七哲と呼ばれる高弟の一人だった事も
影響があったのではないかと思われます。

利休は秀吉の勘気に触れ、忠興ら利休の弟子達が助命に奔走しましたが
秀吉は結局、利休を切腹させ打ち首にしてさらしたそうですからね。





それから関ヶ原の戦い後
細川忠興は豊前40万石に加増されましたが
幽斎は京都で悠々自適のご隠居生活を送ったそうです。


ちなみに細川忠興の後を継いだのは三男の忠利で
長男の忠隆は関ヶ原の戦いの折
彼の妻が細川家の屋敷から逃げた事で
(忠興の妻は自害したのに息子の妻は自害しなかったので)
父・忠興の怒りを買い、その妻と離縁して
妻の実家がある前田家に送り返すように命じたのですが
忠隆はこれを拒否

これに対して忠興は忠隆を勘当し、廃嫡したそうです。

そのような事があって忠隆は出家して長岡休無と名乗り
京で暮らすことになったのですが
そんな事があったので妻とは結局離縁したそうです。

そんな長岡休無の生活を支えてくれたのが
祖父・幽斎だったそうです。


ちなみに幽斎は側室を置かなかったそうです。






個人的に藤孝が足利義輝に仕えたところから
物語を始めると面白いかなぁって思ったりするんですけどね。

序盤でいきなり足利義輝の最期とか
かなり見応えがあるでしょうし

何より足利義昭の救出が主体となる物語もなかなかないでしょうし(笑)


その後の明智光秀との出会いとか

千利休との出会いとか

足利義昭と織田信長の対立に挟まれる苦悩とか

本能寺の変での出家・隠居とか

一色氏の成敗の話とか

千利休との別れとか

そして関ヶ原とか

ドラマとしての見せ場は結構できると思います。


この方を演じる際には40代の役者さんが
バランスがいいんじゃないかなって気がします。

個人的には今思いつく限りでは渡部篤郎さんかなぁってとこなんですけどね。


(追記2009/05/29)
後、野村萬斎さんもアリだと思いました ̄▽ ̄b


また、この人の逸話はまるで落語のような御話が多いので
これがドラマ化される折には脚本は是非、「ちりとてちん」の藤本有紀さんに
お願いしたいものです(-人-)

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この記事へのコメント

キッド
2009年05月10日 16:42
ikasama4様、ふたたびこんにちは。

さてさて今夜は本能寺の変なのでございますが
細川総理の先祖・細川幽斎(山城)と
筒井康隆の先祖・筒井順慶(大和)は
なんとなく、貴族的な武将の幻想があります。

もういつの時代も優雅さを漂わせている感じ。
その二人が北と南で・・・明智光秀の
傘下にあり・・・共に裏切るというところが
キッドの妄想をかきたてます。

明智光秀もどちらかと言えば貴族的に描かれるのですが
細川・筒井に比べると成り上りの田舎者という感じになり
もうクールに見放す図式になるわけです。

このあたりの貴族的シビアさが
そそるのでございます。
ああ・・・優雅で冷たい細川幽斎・・・見たいですなあ。
光秀に「お前もバカな男だねぇ・・・」という渡部(真山)幽斎萌え。
ikasama4
2009年05月11日 18:04
キッド様
こんばんはです。

細川さんと筒井さんを見てると
たしかにそんな色合いを感じさせます。

どちらも足利義輝(義藤)の偏諱を受けた二人ですからねぇ。

明智光秀も色々と謎の多い人物ですが
和歌・茶を好んだ方で雅号もあったそうですから
そこで細川さんや筒井さんと親しくなれたんでしょうかねぇと
思ったりもしたんですが、たしかに血統によって
見放したという事もありますかね。

まぁ謀反という主殺しを由としないところも
あったかもしれません。

でもって庶兄かもしれないという事で
どこかしら陰がある人物は渡部さんが適役かなぁと
思ったりして(; ̄∀ ̄)ゞ

>光秀に「お前もバカな男だねぇ・・・」という渡部(真山)幽斎萌え。
是非見てみたいです(〃▽〃)

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