天地人 「新発田重家との戦い その1」を勝手に妄想

それはあまりにも突然の出来事だった。

6月5日
魚津から越後へ侵攻した織田軍が撤退した。


更に物見の報せでは
魚津城は空城となっていると言う。



何が起きたのか
景勝と兼続のみならず上杉家中も者達は皆一様に計り兼ねていた。



織田家家臣・惟藤日向守(明智光秀)から書状が届いたのは
それから間もなくの事だった。




この文を如何に見る


おそらく、この明智光秀なる者が織田信長を討つという事ではありますまいか。

そして、此度の越中にある織田方の動きを見れば
明智は事を成就したかと。


だが、そうなれば明智は織田にとって主を殺した不忠者になり
他の家臣より誅殺される恐れがありまする。



そこで織田に敵対する者達にこの文を送り
織田に対して攻勢をかける事で各地に散らばった
織田方の諸侯達を足止めし、その隙に惟藤なる者が
織田信長亡き後の座を奪わんとするものでは




ならば如何にする



この好機を逃す訳にはいきません。
まずは越後及び周辺の地域の鎮撫に務めるべきかと。





織田信長の死により越後周辺は混沌としていた。


越中は柴田勝家・前田利家らが自国の領土の鎮圧のために戻った事により
佐々成政が単身で越中を守り

信濃では森長可が信長の死によって国人衆などの謀反を恐れて信濃から美濃へ逃亡

上野では滝川一益は北条との戦いに敗れ、上野から去っていた。


それに伴い越中・魚津城と信濃・海津城に残された諸将は上杉に寝返った。


それを受けて景勝は
海津城へ山浦家の当主でありかつて北信濃の領主であった村上義清の子である山浦国清を
魚津城へ北信濃の国人衆であった須田満親をそれぞれ向かわせた。


それから上野から信濃へ侵攻する北条の動きに備えていたが
越後の火種を消し去るために北条と和睦。



そして周囲の憂いをなくすと
この年の9月、景勝は春日山城を兼続に任せ、自身は新発田城へ向けて出陣した。


城の配置は大まかではあるがこのような位置になる。



しかし、当時の地形は今の地形とは異なっていた。



この時代、下越地方はかなりの規模での水郷地帯であったらしい。

こちらの資料を参考にすると↓
http://www.city.niigata.jp/info/kanko/tenchizin/niigataminato/episode.html#02





この辺り一帯はこのように河川と池で囲まれていた。



景勝は新発田城を包囲し、その間に周辺の揚北衆の調略を図ったが
特に目立った成果もなく新発田城周辺の田畑を焼き払い
冬が訪れる前に景勝は兵を引き上げた。



おそらく、景勝としては初めてであったのであろう
この辺り一帯の地域の把握に務めたものと思われる。



一方の兼続は狩野秀治と共に春日山周辺の内政
並びに越後周辺の情報収集に務めた。



6月2日に織田信長を討った惟藤日向守は
6月13日に中国から帰還した羽柴筑前守によって討たれ
織田家はその羽柴筑前守と柴田勝家によって権力争いが行われているという。

それにともなって織田家の家臣はそれぞれが独自の動きを見せるようになってきた。


甲斐では織田家家臣であった川尻秀隆が信長の死による混乱の中で
武田家の遺臣によって殺害され、空となった土地を徳川と北条が争い
甲斐の国人衆を味方につけた徳川が勝利し、甲斐を治め、それにともなって信濃へ徐々に勢力を
伸ばしてきていた。


徳川はかつて織田方で武田狩りが行われた折
武田の遺臣を匿って自分の家臣団に組み込んでいた。

そのため、徳川に仕えた武田の遺臣達は
甲斐・信濃の国人衆を説得し、徳川方に味方していた。



―――――次は徳川か。



兼続はふとこれから迫り来る脅威を感じていた。




間もなく景勝が春日山に戻ってきた。


兼続はこれまでに得た報せを報告した。



それで新発田城は?




景勝はいつにも増して渋い表情を見せた。



かなりの城らしい。


その後、景勝が語ったところによると


新発田城にあまり力を入れると
その周囲にある五十公野城・加地城・池之端城より
攻め込まれ退路を絶たれ窮地に陥る可能性があった。



元々、新発田城周辺は水郷地帯であるので
なかなか数ヶ月単位の食料には事欠くのだが


新潟津から送られる物資によって長期戦を可能としていた。
新発田は物資の要となる新潟津を抑えたのもそのためであろう。



また、中立の立場をとる揚北衆の者達に調略を行っても
景勝に付こうとはしなかった。


それには新発田重家は葦名氏との後ろ盾がある事が大きかった。

それを物語るかのように葦名氏が治める津川城より
赤谷城を通じて新発田城に武器や物資が送られていた。









年が明けた1583年
景勝は新発田の物資の根元を絶つために新潟城に向けて出陣した。

新潟城の対岸に陣を敷いたが
そこから思うように城を攻めれずにいた。


まず、一番の問題が川であった。

景勝の陣と新潟城を挟む川の幅は3町(約300m)もあり
当時の火縄銃の射程距離が約270mであったために
対岸からの鉄砲は新潟城には届かなかった。


そこで景勝は船を調達して、そこからの射撃によって
新潟城を攻撃しようとした。

この近辺で船をもっているのは新潟津の町人達である。


だが、町人は景勝に船を貸すドコロか売ってさえくれなかった。




新発田重家は新潟津を占拠するに当たり
新潟津の町人達から人質をとっていたのである。


そこで三条城・木場城付近の町人から船を買い取り
その船に櫓を立てて新潟城に火矢を浴びせたが

景勝が使った船頭達は地元の潮の流れが分からない者であった事もあり
潮目が変わるとなかなか思うように動けず

新発田にとって、その船は格好の的となり
一向に城攻めは遅々として進まなかった。


また、戦が長期化して夏が近付くと川の水が増してきた事もあり
水害に襲われる危険性もあるために景勝は兵を引き上げた。




それから春日山城に越中の佐々成政が魚津城を包囲したとの報せが入ってきた。

兼続は景勝とも図り
佐々成政に降伏して開城させる文を送り、須田満親にもその事を伝えた。

それに佐々成政は応じ、須田満親も魚津城を開城して越後に戻ってきた。

佐々はかつての魚津城の戦いでの苦い経験を忘れてなかった事もあり
また、それだけ時間をかける余裕もなかったのだろう。

一方、上杉としても今は出来るだけ将兵を失いたくないという思いがあった。

そこで魚津城が万が一取り囲まれた折には敵方に城を明け渡してでも
戻ってくるように須田満親には命じてあった。

どちらかといえば外交能力に長けていた須田満親が魚津城を任されたのも
景勝・兼続らのそのような思いをうかがう事ができる。




その年の8月
景勝は新発田城に向けて兵を進めた。

昨年と同じく遠巻きから新発田城を囲み
周辺の国人衆の調略を図ったが、目立った成果はなく
昨年と同じく周辺の田畑を焼いて兵を引き上げた。


しかし、退却の途中
放生橋にさしかかった折、突然の豪雨により地盤がぬかるみ
景勝軍は思うように動けずにいた。


そうした景勝の動きを知った新発田重家は
池之端城の将兵と共に二方向から景勝軍を襲撃した。



混乱の中の襲撃に景勝軍は大敗。
殿を務めていた水原満家をはじめ名だたる武将が戦死
これにより水原城は新発田の手に落ちた。



その報せに上杉家中に動揺が走った。

景勝の安否も分からない程に混乱していたため
もしや御屋形様は討たれてしまったのではないか
そうなれば、またあの時のような騒乱が起こるのではないかと
不安になる者が多くいたのだが


春日山に景勝が戻ると皆、一様に安堵し
家中は落ち着きを取り戻していた。



それから春日山城に戻った景勝は
かつて謙信公が篭っていた毘沙門堂に同じように篭った。



御屋形様は泣いておられる。
不識庵(上杉謙信)様のようになれない自分を不甲斐ないと思い泣いておられる。




かねてより謙信公を敬う景勝の姿を知る
兼続にとって、景勝の心痛は察してあまりあった。


御屋形様のために新発田を制圧しなければならぬ。

そのためにはどんな手を使ってでも―――――。


春日山が白い雪で染まる中、兼続の思いは赤黒く燃えていた。








さて、今回はたらたらと歴史の史実をタラタラと追いかけましたって感じです(; ̄∀ ̄)ゞ


ドラマ的にするならば
与板城での兼続とお船の方との掛け合いの話とか
甘い?夜とかあったりするんでしょうけど

自分にはそういうのは無理です(; ̄∀ ̄)ゞ



さてさて新潟という名前もそうなんですが
そもそも「潟」というのは辞書で調べるとこんな意味があるそうで

1 砂州によって外海から分離されてできる海岸の湖。潟湖(せきこ)。ラグーン。
2 浦。入り江。湾。
3 遠浅の海岸で、潮が満ちると隠れ、引くと現れる所。


そして新潟にある福島潟


ど真ん中にある場所で「福島潟」って何でだろうって思ったら
この時代はこの福島潟というのは結構な規模での湖らしく

干拓工事により現在のような福島潟の形になったのは
1975年のことらしいです。

また、江戸時代に新発田藩はその福島潟のみならず
この周辺一帯の川の氾濫に悩まされ代々干拓と治水工事を行っていたそうです。


なもんですから、この頃の揚北地域での戦は
その土地に不慣れな景勝にとっては大変だった事でしょう。



また、新発田重家は14歳にして第4次川中島に出陣し
その後の関東出兵にも参加したいわば歴戦の猛者。


修羅場をくぐり抜けた数が違いますね。



また、戦に強いというだけでなく
葦名と誼を結んだり、新潟津を占拠して町人から人質を取り
新潟津での流通網を抑えた事に関しても

そして、景勝軍が豪雨によって足止めをくらった事で
その好機を逃さずに攻めて撃退した事に関しても

なかなかの戦術・戦略眼があったと思われます。




一方の上杉としては
織田信長の死によって空白地帯となった信濃・上野を
北条と徳川と争う形になる訳ですが

その際、越中に関しては佐々成政が魚津城を取り囲むと
早々に降伏開城し、それを佐々成政が受け入れたという事に
双方共にあの時の魚津城の戦いの苦い経験があったからなんでしょうね。


それに魚津城を佐々に奪われても
羽柴・柴田の争いなどによりその佐々が越後に侵攻してくる余裕はないと
見たからなんでしょうね。




さてはて、この新発田重家との戦いはまだまだ続くのですが
次回は1584年になりますので葦名の御話も含めて妄想フル稼働で
お送りする予定です(  ̄∀ ̄)ゞ

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 4

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い 面白い

この記事へのコメント

キッド
2009年05月10日 16:23
ikasama4様、こんにちは。

新発田重家の乱はまだ始まったばかり・・・
越後一国さえ支配できない
上杉景勝の無力感を漂わせるわけですが
まあ・・・まだまだ辺境の話なんですよね。

一説によると
柴田勝家と新発田重家は遠い親戚で
勝家の柴田氏は斯波氏の庶流でもあり
越後新発田氏の末裔でもあるとされています。

斯波義勝が新発田庄で柴田氏を名乗り
その孫が勝家です。
戦国の武将たちの流動性ですよね。
キッドの家は東京下町にありますが
関東から川中島の合戦に参戦した地侍の子孫がいます。
信濃から流れてきたのではなくて
関東から出陣して還って来ているわけです。

めぐりあい越後で
上杉家を挟んで柴田勝家と新発田重家が同盟する。
ある意味、奇跡でございますよね。
まあ・・・勇猛な血筋のロマンでございます。
まあ・・・破壊神シヴァの名を持つ二人の武神は・・・
切腹の見事さでも符号するのでございます。
ikasama4
2009年05月11日 17:44
キッド様
こんばんはです。
新発田重家との戦いは景勝ならびに兼続の
戦に対する未熟さを露呈しておりますので
この辺りは謙信公と比べるものではないですねぇ。

柴田氏と新発田氏の系譜の情報、ありがとうございます。
面白いですねぇ。

元々「勝」と「重」以外で
読みが同じなので気にはなっていましたが
なるほど、そういう繋がりがあったとは ̄▽ ̄

そんな二人が同盟を結ぶというのは
ホント奇跡ですねぇ。

破壊神シヴァに同じ運命を辿るトコロにも
何か運命めいた繋がりを感じさせますね。
2019年05月09日 19:53
This information is priceless. How can I find out more?
2019年05月11日 05:07
Your style is really unique compared to other folks I've
read stuff from. I appreciate you for posting when you have the opportunity,
Guess I'll just bookmark this page.
2019年05月18日 01:38
Wow! At last I got a blog from where I be able to in fact take
valuable information concerning my study and knowledge.

この記事へのトラックバック

  • 小学校時代は魚津に住んでいました

    Excerpt: JUGEMテーマ:日記・一般  今「天地人」で魚津城の攻防戦をやっているらしいです。実は私、小学校2年生の時から中学校1年生というもっとも多感な時期に、魚津に住んでいました。私が小学生の時はみん.. Weblog: 中川岳志のブロク゛ racked: 2009-05-10 12:49