天地人 「新発田重家の乱」と「武田征伐」を勝手に妄想

直江を継いで家老となった兼続は
直江の居城・与板城に戻る事も、妻となったお船に会うこともなく
春日山城にて同じく家老となった狩野秀治と共に内政及び此度の争いの収拾に奔走していた。




その出来事から遡る事、三ヶ月前。



天正9年(1581年)6月16日

此度の乱においては我らが御味方になったからこそ景虎を討ち果たし
景勝が御当主となられた。
しかし、その恩賞はさして功のない者ばかりが賜っておる

斯様な有様にて安田殿は心痛極め御自害されたのじゃ。

これではとても景勝を我が主として頼る事などできぬ。

このうえは城に立て篭もりて5年も10年も越後を悩まし我が恨みを晴らすべし。

その願い敵わぬ折には自害して、我が屍を戦場に晒し
この地の者共に我が名を残さん!




景勝に謀反を起こしたのは
兄・長敦の跡を継いで新発田の当主となった重家であった。
重家の他には妹婿である五十公野道如斎信宗
加地秀綱など景虎派の残党を味方にして挙兵した。

この日、重家は五十公野城で挙兵するとすぐさま新潟津を奪い
付近に城砦を築き、更に信濃川と阿賀野川の合流する地点に新潟城を築き
景勝に対する防備を固めると共に港と食糧の補給路を確保していった。


間もなく、その知らせは春日山城にいる景勝と兼続の下にも届いた。



そこで景勝は本庄繁長と色部長実に重家を抑えるように命じた。

本庄繁長は謙信公が存命の際に謀反を起こし
伊達・葦名の仲介があって謙信公に降伏したものの
謙信公と互角に戦った数少ない武将の一人であり

色部長実の妻は新発田重家の妹である。

この二人ならば重家を抑える事が出来るであろうとの景勝・兼続の判断だった。



本来ならば景勝自らが出陣して重家の反乱を鎮圧すべきだがそれは出来なかった。
春日山を動きたくても動けない事情があった。


ひとつには此度、直江信綱ら重臣が春日山城内で殺害される事件が起きた事で
家中に動揺が走ったためにその沈静化に奔走していたため

そして、今ひとつが越中である。
越中は謙信公に重用された河田長親が守り、柴田勝家ら、織田軍と戦っていたのだが
河田長親が急死した事により、織田軍の勢いが増しており、越中での支配は織田によって奪われ
織田軍は魚津城を破れば越後・春日山城を脅かすところまでこようとしていた。




ただ、このまま春日山で手をこまねいている景勝と兼続ではなかった。



まず、重家に対しては武田に仲裁してもらうよう働きかけ
それが駄目となると次は葦名に仲裁を働きかけた。


おそらく、駄目であったとしても重家を足止めさせる時間は稼げるであろう。



その間に越中の織田軍については
織田軍の中にかつて能登畠山氏や神保氏に仕えていた者がおり
その中の上杉派だった者に対して調略を行っていた。


折を見て上杉方に寝返らせ、内と外より越中の織田軍を叩く。


それが兼続の策であり、これならばと景勝も考えた。





しかし、二人は見誤っていた。






織田信長という男の怖さを。





越中ではまもなく上杉が内通を図っていた織田方の武将が悉く処刑され

明くる年(1582年)の2月1日に
武田勝頼の義弟・木曽義昌が織田信長に寝返った事を期に

2月3日には織田信長は武田征伐を決定

美濃、飛騨より信濃へ侵攻し
時を同じくして徳川家康は浜松より駿河へ侵攻

徳川家康と同盟を結んでいた北条氏政も
伊豆・相模・上野より駿河、上野へ侵攻

武田は様々な方向から攻められる形となった。



織田の大軍に信濃の国人衆はほとんどが戦わずして逃亡もしくは織田に降伏した。


2月16日
武田勝頼は織田の大軍に破れ、諏訪に撤退するものの
そのまま甲斐に撤退。



3月1日、織田軍は高遠城まで侵攻

武田勝頼の義兄・穴山信君が家康を通じて信長に寝返り
高遠城城主で信君の娘を妻にしている勝頼の弟・仁科盛信は最後まで戦い討ち死にしたと言う。



越後でその報せを聞いた景勝は新発田重家と交戦中で動く事が出来ず

織田の勢いを留まらせるために兼続に命じて
策を以って織田方ではあるが上杉に内通していた小島職鎮に富山城を落とすように伝えた。

これにより越中の織田軍を挟撃し
武田を攻める織田の動きをけん制しようとするためのものだった。


兼続は早速小島と繋ぎを取った。

それに小島職鎮は応じ、富山城を強襲し乗っ取ったのだが
武田を攻める織田の勢いは全く衰える事はなく

3月11日には
織田は柴田勝家ら1万の軍勢で富山城を攻め落とし
兼続らの策は脆くも崩れ去った。



くしくもその日は

甲府から小山田氏が篭る岩殿城で再起を図るために
向かった勝頼一行が小山田氏が武田を裏切りに遭い

天目山で家臣共々自害して果てた日でもあった。






しかし、それで終わった訳ではなかった。


織田軍は武田に通じる者であれば血縁者や重臣に留まらず
武田の庇護を受けた諏訪大社や寺を焼き討ちにし

更には農民に武田方の者を探し当てると殺害して、その首を持ってくれば
恩賞を与えると御触れを出した。

農民達はそれに応じて次々と武田方の諸将の首を差し出したと言う。


武田狩りである。




間もなく越後には
富山城落城と武田勝頼の死、そして武田狩りの報せが届いた。


菊姫は実家の滅亡と兄達の訃報に悲しみにくれ
武田に対する織田軍のやり様は上杉の諸将を戦慄させていた。



それと時を同じくして新発田を抑えていた本庄繁長から驚くべき報せがもたらされた。


葦名盛隆は上杉家に謀反を起こした新発田重家に物資の支援をしていたというものだった。

更には葦名盛隆は織田信長とも通じていると言う。






「我らはまんまとしてやられた―――――。」




兼続は血がにじむほどに唇を噛み締めていた。



この状況にようやく景勝と兼続は
自分達が信長によって踊らされていたのだと悟った。






信長はかつて自分達を苦しめた武田と上杉を討つ事を考えていた。

その第一歩として信長が考えたのが―――内部分裂

それぞれの家臣達の不満を探し出し
その隙間に入り込み、謀反を起こさせる



此度の新発田の謀反の陰には織田が絡んでいる。



おそらく当初、織田は上杉を目標としていたのであろう。

乱が収束したとはいえ、景虎方の残党もあり
上杉家の攻略はたやすいと考えていた。


だが、思ったよりも上杉の結束は固かった。



そこで織田は上杉から武田へ方針転換した。


武田は上杉よりも領土が広いとはいえ
勝頼が数々の連戦で幾多の家臣団から不満が充満しており

更に武田は織田の他、織田の盟友である徳川、そして
徳川と同盟を結んだ北条と隣接しており

上杉よりも攻め易いと見たのであろう。


だが、織田は念には念を入れて
まだ越後の雪が残り、上杉が足止めされている隙に
四方から武田を攻め立て、これを滅ぼした。




そして織田が次に狙うのは―――――上杉しかない。




間もなく越中の織田軍が4万もの大軍を率いて
魚津城に侵攻したとの報せが届いた。

景勝は急ぎ増援を送ったが魚津城は総勢3800名。


圧倒的に不利な情勢であった。



新発田も動く―――――か。



「御意。」





上杉の命運は風雲急を告げていた。




そんな中、武田信玄の七男で安田家の当主となっていた信清が
織田方の執拗な武田狩りから逃れ菊姫を頼って越後にやってきた。


菊姫は再び弟と出会えた事に涙を流して喜んだ。


春日山にささやかながら喜びの声が響いた―――――。











今回もがっつり書いた気分(; ̄∀ ̄)ゞ

まぁこういうとこまで本編のドラマではしないでしょうからね(爆)



大半はWikipediaを参考にしておりますが

武田の残党に対する織田と徳川の対応はかなりの差があったみたいですね。


織田はというと徹底的に武田方だった者は粛清されたそうです。

信玄の弟・信廉をはじめ、ほとんどの者は処刑されてます。
織田方についた小山田信茂も「不忠者」として処刑されてますからね。
それから金をばら撒いて農民達の手で武田方の者を殺害したり
更には武田の庇護にあった諏訪大社などの神社・寺は
武田の残党をかくまったとして焼き討ちに遭ってます。

その中の寺のひとつ・恵林寺の住職・快川紹喜は
「心頭滅却すれば火も自ら涼し」と言い残して焼死したと
伝えられています。

この快川紹喜は美濃・土岐氏の出身で
明智光秀とは同族であったために、この事が
本能寺のきっかけとなったという説もあるらしいですからね。

個人的にはそれはどうかなぁとは思いますけど。


一方、徳川は武田方だった者を密かに匿ったりしてます。
穴山信君は武田の重鎮ともいえる人物ですが
彼は徳川家康を通じて寝返ったからこそ処罰されなかったとも言えます。

後にこの武田方だった者臣達は徳川に仕えています。

井伊直政が「井伊の赤鬼」「井伊の赤備え」と呼ばれるようになったのは
井伊の配下にこの武田の者達が配属されたことと
武田の軍略を取り入れたりしてますからね。


まぁこういうのは織田と徳川
それぞれの性格が出ていると思います。


徳川のしたたかさと見る事も出来るのでしょうけど
幼少期より人質生活を強いられ、家臣共々苦しい生活を余儀なくされていた
時代を経験していた家康だからこそ、かつての自分達と似た境遇にある彼らを
救いたいという思いが心のどこかにはあったんじゃないかなって考えもあったりします。

同情と打算がワンセットになったってとこですかね。




それから、今回の織田と景勝・兼続の対決に関しては

年齢もそうですが、修羅場の数が違うという格の差があるって感じに
してみましたが、台詞とか考えるのは自分には無理ですヽ(;´Д`)ノ




とりあえず次回は魚津城の戦いでお送りする予定です(  ̄∀ ̄)ゞ

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この記事へのコメント

キッド
2009年04月26日 02:43
ikasama4様、こんばんは。

信長が家督をついだのが天文20年の信秀の死の直後と考えると
天正9年でほぼ30年。
その間、一族の内訌を制し、今川を打破し
足利将軍家を再興し、足利将軍家を滅亡させ、
本願寺との宗教戦争に勝利し、
ついに全国一統への足がかりを築くに至る。

この戦国時代でサバイバルを続けながら
戦国時代そのものを終らせつつあった男から見れば
越後・上杉家の主従は
まさに赤子の手をひねるような扱いだったでしょう。

それでもなんとかしなければどうにもならん・・・
そういう景勝・兼続の精一杯さが
伝わってくる記事でございますね。

ただし、この主従は最後の最後まであきらめなかった。
それが若さのもつ輝きというものなのでしょう。

世の中、何が起こるかわからない。

そして、奇跡は起きた。

そんな緩急の見せ所なのに
本編はきっと・・・
だってすでに信長・・・お笑いポジションだし・・・。
そんな予感に震える今日この頃でございます。
ikasama4
2009年04月26日 19:10
キッド様
こんばんはです。

数々の戦と危機を乗り越えてきた信長は
正しく歴戦の猛者

如何に兼続や景勝が優れた武将だと言っても
場数で完全に負けてますからね。

二人の行動なんぞは御見通しってとこで
書いてみたつもりです(; ̄∀ ̄)ゞ

そうですねぇ。
それでも諦めずに必死にもがいた。

>そして、奇跡は起きた。

それが一番の見せ場なんですよねぇ。

でも、このドラマはもうそれはないでしょうねぇ。
兼続の物語なのに本能寺の変が描かれるみたいだし(苦笑)

ただただ溜息がこぼれる今日この頃でございます。

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  • ???????????17?????????

    Excerpt: ????????????????????????????????????????????????????????(?�???)?????????????????????????????????????.. Weblog: ????????? racked: 2009-04-27 01:47