天地人 「菊姫」と「信綱惨殺」を勝手に妄想

天正7年(1579年)甲斐より越後へ向かう一行がいた。
その一団にある輿には武田勝頼の異母妹・菊姫が乗っていた。

この時、16歳。



兄上様は何故、上杉を選んだのであろう。


侍女から聞いた話だと一昨年の天正5年(1577年)
武田は織田信長に対抗するために上杉謙信と同盟を結んでいる。

一方で北条との同盟を強めるために
北条氏政殿の妹御を妻に迎えている。


私と同い年であろう者を。


それから間もなく上杉謙信が亡くなった。

そこで上杉家はこれから私の夫となる景勝殿と
北条家の出である景虎殿が上杉の当主を巡って争った。

そして、その争いに北条が動き
北条は兄上様を越後に向けて兵を動かすよう促した。


兄上様は越後に向かったものの
そこで景勝殿と和議を結んだと言う。


上杉からは所有する上野・信濃の領土を割譲し、武田からは私が越後の嫁ぐ。


景勝殿はどのような御方なのだろう。

たしか、景勝殿は兄よりも十も下。
私とは7つ離れている。


16歳の少女が夫となる男性に興味を持つのも至極当然の事であった。


一方で彼女にとって、ある不安があった。



兄上様が上杉との同盟を破棄してしまったら自分はどうなってしまうのだろう。

もし、北条のようなお方であれば

私は「姉上様」と同じ道を辿るのではあるまいか―――――。






「姉上様」とは北条氏政の正室となった黄梅院の事である。
その昔、彼女は武田・今川・北条の三国同盟のために
12歳で北条氏政の下に嫁いだ。

そこで姉上様は子宝にも恵まれ、夫との仲も良好であった。

しかし、武田が三国同盟を破り今川氏が治める駿河に侵攻

これに怒った北条は姉上様と氏政とを離婚させ甲斐に送り返された。

甲斐に戻った姉上様は幼い子供と別れ離れになった事で
いつも夜になると泣いていた。


そうして彼女は27歳の若さで亡くなった。


その時の光景が当時5歳の菊姫の目にしっかりと焼きついていた。



そうした思いにかられ菊姫の旅路は鬱々としたものとなっていた。








それから越後についた菊姫は無事春日山城に到着。
一行は上杉家家臣・上条政繁ら重臣によって迎え入れられた。



間もなく菊姫と景勝との婚儀が行われた。

そこで彼女は初めて景勝を見た。



―――――大きい。


そう思った。

兄よりも一回りあろうかという体格で
それでいて仁王様のような顔をしてた。



粛々と婚儀が終り
それから間もなく、景勝殿と寝屋を共にする事となった。




菊姫は緊張した面持ちで夫を待っていた。

菊にござります。



景勝じゃ。
遠路遥々御疲れであった。


景勝は菊姫の前にかしこまったように座った。


楽に致せ。
初めてとはいえ、婚儀とは疲れるな。



そう言った景勝の顔はほころんでいたように見えた。



その時、菊姫は思った。


――――――この人ならば大丈夫。


目の前の男に菊姫はそのような安堵感を感じていた。









それから菊姫が眠った頃
景勝は寝屋から離れ自室に戻り、軽く酒を嗜んでいた。





景勝は思う。


此度の武田との同盟は景勝にとってどうしても必要だった。

景勝が武田との同盟を締結するという事は
上杉謙信公と武田が結びし同盟を景勝が受け継いだという事になり
それは景勝が外の世界でも上杉家の当主として認められた事を意味した。
長篠で敗れたとはいえ、武田の名声はまだまだ健在であった。


一方で
上杉が所有する上野・信州の領土を割譲するという事は
日に日に領土が増大していく織田と対抗するためには
徳川と日々戦い、なかなか領土を広げる事が出来ない
武田にとっては喉から手が出る程欲しいものだった。

この同盟が締結していた時点で、互いの利害は一致していた。


だが、このままでは表向きには五分と五分の同盟とならない。


そこで武田が提示してきたのが菊姫だった。




戦国の世の習いとはいえ、菊もまた哀れ。






御屋形様

奥の方から声がした。


兼続であった。


入れ。


兼続は平伏したまま、顔を上げようとはしなかった。


菊姫様は


姫は寝ておる。やはり長旅で疲れておったのであろう。
今宵はあのまま休ませてやる事にした。



そうして、景勝は杯の酒を飲み干した。


そのような事を聞きにきたのではあるまい。何用じゃ



はっ。先程、報せがあり、安田掃部助様が御自害なされたとの由。



景勝は大きく目を見開いた。



相分かった


しばしの沈黙が流れる。


兼続。ひとつ尋ねる


はっ


此度の決断。正しかったと思うか。






「此度の決断」――――それを語るには
安田掃部助顕元が自害に至った事については
時を遡って説明しなければならない。



上杉謙信公が急死した際

安田顕元は弟・能元と共に景勝方につき
「正当な主君である景勝様を捨てて
諸人の景虎に走るは、侍のとるべき筋目ではない」
と言って誓書を差し出したと言う。

その時の言葉に景勝は思わず涙がこぼれそうな程、嬉しかった。

それから顕元は中立の立場を取っている揚北衆の国人達に
この戦で勝てば恩賞がもらえるとして景勝方につくよう説いた。

そうして景勝方に寝返った者の中には
揚北衆の国人である新発田長敦長敦の弟である五十公野重家
河田長親の与力である毛利秀広らがいた。


特に景勝方において新発田長敦と五十公野重家の働きは大きかった。

五十公野重家は春日山城を守り、景虎方を撃ち払い
また、葦名軍を抑える働きを行った。

そして、景勝方と景虎方との戦局を一遍させたのは
新発田長敦が武田との講和で見事同盟を取り付けた
働きによるものだった。

この二人の働きがあったらばこそ
景勝方に勝利をもたらされたと言っても過言ではなかった。


そして乱が収束した後
論功行賞の評議が行われる事となった。


以前より、顕元より恩賞の話を聞いていた景勝は了承していた。


しかし、その恩賞に異論を挟む者がいた。


奉行職にある山崎秀仙と直江信綱だった。


彼らの主張はこうだった。

新発田や五十公野ら、揚北衆の面々は
戦が景勝公に有利となればいずれは降参したであろう。
かの者達の寝返りは遅速に過ぎないと。

また、景虎との争いが始まった際、景勝には当初より身命を賭して働いた家臣がいた。
それを差し置いてかの者に
第一の恩賞を与える事は将来に必ずや遺恨を残す事になるであろうと。



違うであろう。


この時、景勝は思った。

直江があのように反対するのは彼らが
上杉家と疎遠にある「外様」の家臣だからであろう。

一方で、そのような「外様」の家臣に恩賞が与えられるという事は
「外様」の家臣が重用される事に繋がり

即ち譜代の家臣達の地位が脅かされる事を意味していた。

結局、己の保身のためであろう。


しかし、景勝が新たな政治を行う上で
自分を支えてくれた上田衆および重臣達の存在は不可欠であった。

そのどちらが欠けてしまうという事は
景勝の政治基盤が大きく揺らぐ事になり

譜代の家臣達が景勝に対して謀反を引き起こす可能性もある。

だが、信綱らの主張を通せば
揚北衆の者達が景勝に対して謀反を引き起こす可能性がある。


そうして議論は長期化し、その最中に新発田長敦は病死した。



そんな中、景勝の脳裏にいつも浮かんでいたのは

顔を歪める顕元の姿だった。


景勝はこの律儀とも言える男が好きだった。

それだけに顕元のそんな顔は見たくなかった。




その事について兼続は以前、景勝に問われた事があった。




どちらを選んでも火が燃えるは避けられないのでありましょう。
だとすれば、その火が燃えるは春日山の近くか遠くか
その一点につきまする。


あの時、兼続はそう答えた。



それから数日後、景勝が選んだのは山崎・直江の両名の意見だった。



これから景勝の政治基盤を強固にするためには
致し方のない判断だったのかもしれぬ。


案の定、安田顕元は景勝の下に此度の採決を
再考してもらうよう嘆願しに来た。



景勝は顕元にただ「すまぬ」としか言えなかった。



そうして、景勝が新発田や五十公野らに与えた恩賞は

新発田長敦が亡くなり、その子もいなかった事から
上杉家のしきたりでは本来ならば新発田家の領地を没収するところを
此度の働きにより、長敦の実弟で五十公野に養子となっていた
重家が新発田家の家督を相続する事を認めるというものだった。


一方で重家が討ち取った景虎方が治める城を上田衆の者に与えた。
それは新発田らの監視の役目も兼ねていた。



わしが掃部助を殺したようなものじゃな。



その言葉に兼続は答える事が出来なかった。












それから数日後の夜、兼続は景勝に呼ばれた。






わしは直江信綱を討つつもりじゃ。



今度は兼続の目が大きく見開いた。



何故にございますか?



重臣らはわしを操って上杉を牛耳ろうとしておる。

その筆頭が直江じゃ。




直江景綱は長尾為景、そして上杉謙信と仕えてきた。
とりわけ武勇に優れた家臣が多い上杉の中で内政・外交に優れ
謙信に重用されてきた譜代の重臣である。


だが、一方で景綱は自分の娘を殿に近づけて
殿の和子を授かろうとしていたところがある。

それは和子の外祖父となる事で
家中での己の発言力を強めようとしていた節がある。


また、景綱の死後、彼の後を継いだのは
景綱の娘を娶り婿養子となった信綱である。



それから、天正5年(1577年)に上杉家で最大の兵力を擁していた
山吉豊守が亡くなると、山吉氏の領土と兵は半減され
山吉が抱えていた兵や家臣を景勝の配下に組み込まれる事で
景勝は家中で最大の兵力を誇るようになっていった。

それもこれも信綱の働きがあったからであろう。


それから、謙信公が亡くなりし折
謙信公の遺言状としてわしに継がすとあったと家中に告げたのは
景綱の妻・妙椿尼であった。


それから、此度の論功行賞で
新発田らに恩賞を与えようとしていた景勝に対して異論を申したのは
山崎秀仙と直江信綱である。

そして、景勝が意見を覆し、信綱らの意見を採用した事で
家中での信綱の発言力は強まる事となった。



兼続にも思うところがあった。




そして――――――。




此度の景虎殿の件、御屋形様は直江様が図ったと―――――。



そうじゃ。

もし、景虎殿が降伏すれば
一度わしに弓引いたとはいえ、いずれは重用されたやもしれぬ。

それを直江らは嫌ったのであろう。

此度の件に関しては禅忠殿(河田長親)を通じて配下の誰かを動かしてもらう。




河田長親、この時は出家して禅忠と名乗っていたこの武将は
中立の立場を取っていたが後に景勝方についた。

彼は上杉謙信公に重用され越中方面の総指揮官として優れた武将であり
また、彼は古志長尾家を継承していた事もあり

その彼が景勝方についたという事は
景勝方の勝利にとって大きな影響力を持っていた。


しかし、彼もまた此度の論功行賞では恩賞をもらうことは出来なかった。


此度の直江らの意見がために。



なるほど。此度の恩賞の不満によって直江は討たれる筋書きと。



その通りじゃ。
そうなれば信綱には子がおらぬ故に直江家の跡継ぎはおらぬ。



さすれば、直江家は断絶。


いや、それはさせぬ。
わしのとりなしによって然るべき者に直江家を継がせる。



なるほど、さすれば
御屋形様の意を汲む者に直江を継がせるのですな。
そうなれば、それが新参者であったとしても
直江という名跡があれば誰も逆らう事は出来ませぬ。





左様。その名跡を継ぐのは御主じゃ。




相分かりました。某が直江の名跡を・・・・・はい?


屋敷内に兼続の声が響く。


い、今何と?



直江の名跡を継ぐのは御主じゃ。



兼続は唖然とした。




そのような形で直江家の当主が不在となれば
わしの独断で当主を選んだとしても誰も異論は挟めぬ。

それに先程、御主が申したであろう。

『新参者であったとしても直江という名跡があれば誰も逆らう事は出来ぬ。』と。

「その時」が来たら直江を継いでわしの力になってくれぬか。




御屋形様が自分の助けを必要としている。





謹んでお受け致しまする

兼続は深々と頭を下げた。



それが御屋形様の御力になれるのであれば。


それから兼続はすぐさま動いた。






「その時」が来たのはそれから一月ほどの事であった。









直江信綱と山崎秀仙はかつて河田長親の与力であった毛利秀広によって殺害され
その毛利秀広はその場に居合わせた岩井信能によって討ち取られた。



そうして兼続は未亡人となった直江家の娘・お船を娶り
直江の名跡と直江家の居城である与板城、そして家老という役職を貰い受ける事となった。



その最中、越中の最前線にいた河田禅忠はこの年、39歳の若さで病死した。




それが本当に病死なのかは誰も知らない―――――。










今回もガッツリやってみました ̄▽ ̄

こういうモノ書きをされる方はホント大変だなと思います。

今回、これを書くにあたり
勝頼が謙信と同盟を結んでいた事をすっかり忘れてました(; ̄∀ ̄)ゞ


菊姫に関しては
自分達の姉が政略結婚によってどうなったのか
見てきただろうというトコロもあってこんな感じにしましたが


個人的に兼続が直江の名跡を継いで家老となって活躍するというトコロに関しては

本来ならば断絶、もしくは仮に直江の跡継ぎがいたとしても
今回の不始末によって領土が半減されたりと直江家の力は失墜していた可能性は大きいです。


それが景勝の小姓である兼続が直江家に入り、その後の活躍に繋がっていますからね。
事を考えれば、直江家の基盤はそのまま維持されたというところでしょうかね。



何より、もう一人惨殺された山崎秀仙に関しては新参者とはいえ
上杉家で活躍していた方の後継問題とかが分からないというのも
気になるところです。


タイミングとしては
河田長親が亡くなった年とその部下であった毛利秀広が家老殺害に及んだ年が
同じという事で絡めてみたりもしてみました。



とりあえず次回もこんな感じで書くと思います。


ここ最近、ちょくちょくWikipediaを見てるのですが
そこで驚いたのが



新発田重家を演じる役者さんがいない



(; ̄∀ ̄)オイオイ




という事で次回は
武田征伐と新発田重家の乱の二本立てでお送りしたいと思います(; ̄∀ ̄)ゞ

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この記事へのコメント

taira
2009年04月18日 20:51
面白いですね!  恩賞、つまり査定    今も、昔も 争いのもと  くわばら、くわばら
景勝は、身内に甘く 客分の応援にはそうでもなかったということですね!
ちょうど面白いサンプルがあります。   関ヶ原後の家康の人事査定です。
ちょうど逆なんですね。  身内に甘くないけど相応の評価もしますが、それより客分格の諸将により以上の大盤振る舞いをします。
現実として関ヶ原では徳川身内の軍団より、そもそもは豊臣身内の軍団が先頭に立って活躍したので当たり前といえば当たり前なんですが・・
つまり関ヶ原は実質 豊臣の中での内ゲバ  最も、それをうまく利用したのが狸オヤジなわけです。

家康、関ヶ原に勝ったとはいえ まだ豊臣を完全に葬り去っていない。
それゆえそもそも豊臣ゆかりの武将にへそを曲げられるのを恐れたんですね。
  
taira
2009年04月18日 20:52
福島、加藤、浅野、黒田など  だから大盤振る舞いはしますが、きっちり四国、中国、九州に追いやり 身内で重要な場所は固めます。
で、、完全に自分の天下になってからは改易だのなんだので好き勝手したわけですが。
こんなとこにも家康のうまさが分かるような気がします。   身内に甘く、外に厳しいのもいいけどほどほどに・・・・   
ikasama4
2009年04月18日 21:30
taira様
恩賞に関しては今も昔も同じですね。

たしかに徳川家は上杉家が取った方針とは逆ですね。
それはひとつにそれぞれの家の背景の違いでしょうか。

上杉家の場合、景勝と景虎が争った事で
上杉の地盤が脆弱であったために
それを強化するために譜代に恩賞を
篤くしたんでしょうけど、その背景には
それだけ家臣に対する忠誠心を100%信じきれなかった
とこがあるのかもしれません。
ikasama4
2009年04月18日 21:31
taira様
一方の徳川家の譜代家臣と言えば
「主君のためには命を惜しまぬ三河武士」ですからね。
家康の父と祖父はそれぞれ暗殺されていて
そのために御家は滅亡の危機にありましたからね。

その時の経験が家臣団に対して
主君を守ろうとする強固な結束を生んだようで。



そのために外様大名には大盤振る舞いですが
その近くには譜代大名がいて、しっかり監視してるとこにも
家康の上手さがあります。

まぁそれだけ家臣に対する忠誠心を100%信じれていたって
とこでしょうかね。
キッド
2009年04月19日 06:24
ikasama4様、おはようございます。

リアルに越後の武将不足の大河ドラマと化していますが
越後に限らずほとんど戦国大名が空気と化している天地人。
臨場あたりから少し分けてもらいたい今日この頃でございます。

越後上杉氏は御館の乱の危機をようやく乗り越えたわけですが
ここからは粛清の嵐になるのでございますよね。
で、その後は・・・
おそらく、明智光秀が歴史の流れを
止めていなければ
数日で滅亡の危機に瀕する天正十年を迎えるわけです。

越中から柴田、信濃から森、上野から滝川と
織田方面軍が流れ込む上に
下越では新発田の反乱・・・。
まさに風前の灯。

その遠因はここにあるわけですからね。

まあ・・・結局、武将たちが生き残るかどうかを決するのは
運次第なのかもしれません。

そういうことを本編ではちっとも感じさせないんですよ。きっと。
ikasama4
2009年04月19日 16:19
キッド様
こんにちはでございます。
全体的に上杉家の家臣が少ないというトコロと
何故か今後に出てくるであろう信長とか秀吉とか
家康とかそういうとこに時間を割くもんだから
中身がすっかすかでため息が漏れる今日この頃

本当の意味での上杉家の騒乱は
景虎が死んでから始まると言っても
過言ではないのですがね。

たしかに後ちょっと本能寺が遅れていたら
上杉も武田と同じ道を辿っていた事でしょう。

そう考えれば、ホント紙一重の運なのかもしれません。

まぁこのドラマの場合、兼続さんが
「明智が信長に対して不穏な動きをしておりますから
 おそらく謀反を起こすでしょう」
とか言ってそうな気がします。

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