二人の半蔵 あれこれ その2

渡辺半蔵守綱と服部半蔵正成
二人共「徳川十六神将」に名を連ねる武将で
共に槍働きに優れていたそうです。


そのため
渡辺半蔵守綱を「槍半蔵
服部半蔵正成を「鬼半蔵
と称されました。




そんな二人がどういう家柄なのか
どういう運命を辿ったのか
その経緯をまとめると共に
自分の妄想を織り交ぜながら(; ̄∀ ̄)ゞ
ちょっとまとめてみました。










服部氏といえばご存知伊賀忍者で有名です。

忍者にも身分制度のようなものがあり
大きく上忍・中忍・下忍に分かれています。


下忍は情報収集や潜入・撹乱等々実際に行動を行う忍
中忍は上忍から命を受けて下忍を使って実行する忍
上忍は依頼主に会って仕事を受けるかどうか判断して中忍に命令を下す忍


大体大雑把ですがこんな感じです。




その伊賀の上忍として有名なのが
百地家、藤林家、そして服部家です。

服部半蔵正成の父は服部半蔵(半三とも)保長といい
元々はこの伊賀・服部家の出なのですがはじめは足利将軍・義晴に仕え
「石見守」を称したと言われています。

その後、保長は三河国・松平清康つまり徳川家康の祖父に仕えます。


この三河国で生まれた服部保長の子供が一般的に有名な服部半蔵正成です。


ちなみに何故保長が将軍家を見限ったかというと
この時期、足利将軍は衰退期にあり保長は将軍家を見限ったのではないかと言われてます。


ただ自分はこれは間違いではないかと思います。

この頃の足利家は管領・細川家との争いに敗れ京と近江を
行ったり来たりする生活が繰り替えされています。

一方の松平家は松平清康は家臣によって暗殺され、
清康の息子・広忠の代になると今川家に降伏、
そして広忠は暗殺され、彼の息子・竹千代(後の徳川家康)は
織田家・今川家と人質生活を強いられる事になり
三河国は当主不在の時期もあります。





衰退の規模でいえばどっちもどっちなんですよねぇ(笑)


ならば如何なる理由で保長が足利家を出ていった理由を考えるとすれば
それは保長の家柄にあったのではないかと思います。






忍者とは隠れて行動する、つまり隠密行動をする者です。

一方、鬼の語源は「隠」にあると言われています。
隠れているもの、そこから目に見えず、この世のものではない事を意味したそうです。
そこから人に災厄をもたらすもののイメージが定着したと言われています。

つまり鬼=隠であり
忍者とは鬼でもあったのではないかと考えられます。


つまり服部保長は鬼を束ねる者と考えられたのかもしれません。


こういう鬼の原型が出来たのは平安時代の京の人々だと言われています。
ですので足利家の家臣は保長のその鬼の力を欲したのかもしれませんが
足利将軍もしくはその家臣のいずれかは保長を嫌ったのかもしれませんね。

そうして保長を京から追いやったのかもしれません。


「鬼は外」ですからね(苦笑)



おそらくそんな経緯があって保長は足利家から出ていったのではないかと思います。
それから保長は松平家に仕えます。










それから徳川家康が今川家から独立し、
遠州掛川城・高天神城攻略、姉川の戦い、三方ケ原の戦い等々で保長の子・服部半蔵正成が活躍します。
つまり保長は清康に仕えてからずっと松平家に仕えていたのではないかと思われます。


服部半蔵正成は忍者の頭領のイメージが強いですが
実際には槍働きに優れた武将だったようです。

そこに共に槍働きに優れた武将・渡辺半蔵守綱と並んで


渡辺半蔵守綱を「槍半蔵
服部半蔵正成を「鬼半蔵


そう称されました。


つまり鬼を束ねる鬼=服部家から
服部半蔵を「鬼半蔵」としたのではないのかなと。

服部半蔵の強さは家中でも知れ渡っていたのでしょうが
それと同時にその血筋故に蔑まれていたようなとこがあったのかもしれません。





ちなみにもひとつ付け加えると
渡辺半蔵守綱の祖先は渡辺綱と言われています。


渡辺綱は平安中期の武将で
源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として武勇に優れた人物だそうです。
彼には様々な逸話があり、その中でも酒呑童子を退治した話や
羅生門の鬼の腕を切り落とした話が有名です。

つまり渡辺家は鬼を退治してきた一族。

そのためにいくら渾名であっても「鬼」の文字がついた渾名を
つけた人が避けたのかもしれません。

まぁもしかしたら渡辺半蔵に服部半蔵を討たせる意図があったのかもしれませんが。


そんな渾名をつけられた二人ですが仲は良かったのではないかと思います。








まず渡辺家は松平家の譜代の家臣であり
渡辺半蔵守綱ももちろん松平家(=徳川家)に仕えてきました。
また彼は熱狂的な一向衆信徒であったと言われています。

三河一向一揆が起きた折に彼は一向宗徒として家康と戦います。
その戦で守綱の父が戦死しています。


一揆鎮圧後、守綱はその罪を許されて再び徳川家に仕えます。


それ故に一向一揆で一向宗徒であっても
主君を裏切らなかった家臣から蔑まれたとこがあったのやもしれません。



そんな環境が似ているところから服部半蔵と渡辺半蔵は
仲が良かったのではないかと思います。


また、それからの守綱は
掛川城攻め、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い等々
主要な戦いで先鋒として奮闘します。


服部半蔵が参戦した戦とほとんど一致します。



そして服部半蔵と渡辺半蔵は同い年です。
その点も影響したのかもしれません。


それから服部半蔵と渡辺半蔵はもうひとつの痛みを共有する事になります。









それは松平信康の切腹です。

松平信康は徳川家康の長男で武勇に優れた武将だったようです。
しかし、気性が激しくて領内の民を身勝手な理由で殺したとか
家臣の面前で重臣を辱める事があったそうです。

信康の母・築山殿は今川家の出であり
信康の妻・五徳は織田信長の娘であることから(桶狭間で今川義元が織田信長に討たれたため)
妻と母の仲が悪く、築山殿が信康と織田の敵である武田家に内通したとの話が出てきます。
これが織田信長の耳に入り、信長は築山殿と信康の処刑を家康に要求する訳です。

その噂は事実無根であると家臣達は抵抗しますが
結局、築山殿は護送中に殺害され信康は自刃します。


この時、服部半蔵は信康の介錯を命じられますが
服部半蔵は涙で信康を斬る事が出来ず、検死役の武士が介錯したとの話があります。

これが俗に言う「鬼の目にも涙」の語源になったとかならないとか(笑)

それに信康と服部半蔵は面識がないので
この話自体、後世の創作ではないかと言われていますが
とりあえずここではこれは事実という事で仮定するとして。



松平信康の傳役として補佐していた人物がいます。
それは平岩親吉といい、彼は服部半蔵と同い年です。


そして平岩親吉の妹は渡辺半蔵の妻です。

まぁこれはちょっと遠いかもしれませんが
三人は同じ痛みを共有したようなカタチになるという次第です。









それから後の服部家ですが
服部半蔵正成は伊賀忍者を統率する立場になります。
この時、伊賀忍者は伊賀同心となっていきます。

1596年に彼が亡くなった後、正成の嫡男・半蔵正就が後を継ぎます。

しかし、この半蔵正就は伊賀同心に対して横柄な態度をとる事が多かったために
伊賀同心は反発して半蔵正就を解任を要求する騒ぎが発生します。

それが元で半蔵正就は伊賀同心支配の役を解任、
その汚名を返上するために大坂の役に参戦するものの行方不明になります。

それで服部家は半蔵正成の次男・半蔵正重が継ぐのですが
伊賀同心ではなく佐渡金山の政策を担当したそうです。

それは半蔵正重の舅が金山採掘の担当だった大久保長安だからのようです。

それから1613年に大久保長安事件が起こった際、親族であったものの
半蔵正重はお咎めなしだったのですが目付けより佐渡で待機するように指示されたのに
佐渡の対岸の出雲崎で待機していたために徳川家康の怒りを買い、浪人になったそうです。

それから越後の色々な藩で家来として仕えるのですが
どの藩でも藩取り潰しや御家断絶、家督争いにより尽く浪人になったそうです。


それから数年の後、半蔵正重は桑名藩の松平家に召抱えられて家老として仕えます。

半蔵正重の兄・半蔵正就の妻の実家がこの桑名藩の松平家という縁があったためです。

そうして服部家は桑名藩家老として幕末まで代々続いていく事になります。







さて、こうして服部家のその後をまとめてみましたが
こうしてみると何者かが服部家を取り除こうとしたのではないかという風に感じます。


その者は服部半蔵が率いる伊賀者の力を怖れたのではないか。
そのために伊賀者が使う忍の業を弱体化する必要性がある。

そのために伊賀者を指揮する人物を自分達の思い通りになる人物である必要がある。

そのために伊賀者を指揮する服部半蔵が邪魔だった―――


ではないかなと(; ̄∀ ̄)ゞ







それを象徴するのが「半蔵門」ではないかと思います。


服部半蔵正成は徳川家の武将として活躍した武将です。
でも、それであれば服部半蔵の他にも活躍した武将はいます。


それなのに何故他の武将を差し置いて「半蔵」の名が残ったのでしょう。


「半蔵門」の由来は服部正成・正就親子がこの門の近くに屋敷を与えられた事から
この名が由来したと言われています。

しかし、前述の通り服部正就は伊賀同心支配の任を解かれ行方不明になり
伊賀同心支配は別の者が担当していたようです。

つまり服部正就は半蔵の名に泥を塗った事になります。

にも関わらず現在に至るまで何故「半蔵門」の名が残ったのだろうかと。


伊賀者にとって「服部半蔵」の指揮下で
活躍した功績を示す事を語り継ぎたいためという考えもあるようです。


でも裏を返せば絶対に忘れるなとの戒めだったのかもしれません。

我々は幕府が服部家にした事を忘れないため。


今日まで服部半蔵の名が知れ渡っているのもそういうトコロにあるような気がします。


まぁあくまで想像ですけどね(; ̄∀ ̄)ゞ









それから服部家を排除しようとした者がいたと仮定して
はたして、それは誰かな?と考えてみました。


自分が仮定をたてた人物として考えたのが柳生宗矩でした。

彼は1594年に父と共に徳川家康に仕え、1600年の関が原の戦いで功をたてます。
明くる1601年に2代将軍徳川秀忠の剣術師範役、ついで3代将軍家光の剣術指南役になっています。

テレビドラマではいつも悪役政治家をやってますからねぇ。
まぁこれを裏付けるひとつになるかどうかはわかりませんが
徳川家剣術指南役として同時期に仕えていた
小野派一刀流の開祖・小野忠明の所領がわずか六百石であるのに対して
柳生宗矩は元々大和の豪族であったというのもありますが旧領二千石に千石を加増。
それから大名及び朝廷を監視し、こららの謀反から幕府を守る大目付(当時は総目付)の役を任じられてからは
ドンドンと加増を受け、一万二千五百石を領する大名となるのですからね。

これだけでも将軍家に相当の信任を受けていた事が感じられます。



まぁ裏柳生が本当にあったかどうかは知りませんが
柳生の里は伊賀にも近いから柳生家代々の「草」はいたかもしれないですね。


おそらく柳生家の躍進したのは大目付となって
各諸藩を取り締まりガンガンに取り潰しとか改易とかしたからなんでしょうけどね。

それにはやはり「草」は不可欠。


で、柳生家にとって邪魔な存在となるのは伊賀者を支配下におく服部家ではないかと。

まぁ自分の推論ではこれが限界(; ̄∀ ̄)ゞ









それから、これに対して服部家を支持し
かつ柳生家に対抗した者がいたかどうかについてはちょっと調べてみました。



1615年に尾張藩初代藩主・徳川義直の剣術指南役として柳生利厳が仕えます。


柳生新陰流の開祖・柳生石舟斎の五男が宗矩になり
利厳は石舟斎の嫡孫になります。

彼は祖父より柳生新陰流正統第三世の印可を受けます。
この新陰流は一子相伝です。

つまり利厳の剣は正当なる柳生新陰流であるというものです。


これより江戸柳生と尾張柳生が続いていく事になります。




ちなみにこの時の尾張藩家老の一人に渡辺半蔵守綱がいます。




また服部半蔵正就は大坂の役で行方不明になります。
一説には戦死したとも言われていますが、
もしかしたら柳生宗矩の手の者に討たれたのかもしれません。
またもしかしたら渡辺守綱が服部半蔵を匿い、どこかに逃がしたのかもしれません。

宗矩も守綱も大坂の役に参加していますので、そう考えられなくもありません。
まぁそうでないかもしれんですがねぇ。




それから時は流れ1730年、柳生家の五代目藩主が亡くなります。
彼は子供がいなかったためにその9年前に養子をとり、その彼が藩主となります。
つまり、これにより柳生家の血は絶えた事になります。


この養子は高田藩の藩主・松平定家からとってきました。
そして、この松平定家は元々は桑名藩の藩主でした。



この養子縁組に桑名藩家老・服部家が関わっているかはわかりませんけどね(笑)









ちなみにこの妄想については
ある程度の部分については高田崇史さんが書かれている「QED」シリーズを参考にしてます。

どの要素が強いかどうかは一概には言えませんが
とりわけ「式の密室」の要素があるかもしれません。

ご興味がある方はどうぞ。

ただ、陰陽師の世界が好きな方にはオススメできないです(; ̄∀ ̄)ゞ

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この記事へのコメント

キッド
2007年08月28日 00:03
今回は大河が真田話だったのでまたまた滋野一族の話重複。
・・・だったのですが
そうなると立川文庫的に
サルが飛ぶのでございますね。
服部半蔵。
ここでは引き立て役でございますからね。
家康・服部半蔵VS幸村・猿飛佐助
この勝負はたまりませんからね。
ま、TBSでは猿が「とべとべ」言ってますが・・・。
しかし、基本は伊賀VS甲賀ですが
霧隠才蔵は伊賀者なのでまた複雑です。
忍者の原点は大伴のシノビですが
大伴系の忍者に犬養家があります。
ま、犬使いですね。
実は小笠原家には犬甘というこの系列の一族がいます。
で、真田VS小笠原の構図から猿VS犬は妄想しやすいのです。
おそらく、同様に服部家は犬使いではなかったかと思います。
まあ、いわゆるひとつの幕府のイヌですか・・・。
ikasama4
2007年08月28日 21:23
キッド様
相変わらずTBSのサルは張り切ってます(苦笑)
まぁそうやっていつの時代もサルを操っている人が
おるんでしょうけどね。

立川文庫といえば、やはり猿飛でしょうね。
ここはもう外せません(笑)

犬といえば
戦国武将で軍用犬を使ったのは太田資正と言われていますね。
もしかしたらどこぞの忍の真似をしたのやもしれません。

そうそうたしか犬甘久知じゃなかったでしょうかね。
この手の武将はよく信長の野望で見た事があります(; ̄∀ ̄)ゞ

これも「いぬかい」ですね。

古来より犬は「いぬかい」の名が示すように
狩猟等で犬と共に生きてきたとこがあるようで
親しみがありますが

猿の場合は狡猾とか頭が悪いとか
どうも嫌なイメージばかりが浮かんできます。

それもまたここから由来しているのかもしれませんね。

そういえば戸隠もたしか木曽でしたね。
この一体は忍の王国です(笑)

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