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zoom RSS ドラマ化して欲しい戦国武将 「本庄繁長」

<<   作成日時 : 2009/09/26 09:37   >>

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今年の大河の「関ヶ原」の出来栄えが
あまりにも不甲斐なかったので
今回は上杉家の家臣・本庄繁長でいきます。



まず、本庄家というのは
桓武平氏秩父氏の流れを汲む一族で

この一族は北越後は揚北方面を本拠としておりました。

それがために揚北衆と呼ばれておりました。

揚北衆の主な一族は
本庄氏の他、桓武平氏秩父氏の流れを汲む本庄氏の庶流である色部氏
桓武平氏三浦氏流和田氏の流れを汲む中条氏・黒川氏、
源氏佐々木氏の流れを汲む加地氏・新発田氏・竹俣氏
その他・安田氏・鮎川氏・五十公野などがあったそうです。




さて、この頃の越後では越後守護代・長尾為景が
越後守護・上杉定実を傀儡として越後を掌握しようとしておりました。


これに対して本庄氏は他の揚北衆である色部氏などと共に反抗していたのですが
一方で同じ揚北衆である中条氏・安田氏は為景方につき

結果、本庄氏、色部氏は為景に敗れ、降伏します。



しかし、これをよしとしない反為景派の上杉家の勢力が集結
これに本庄氏、色部氏も反為景派に加わります。

この状況に長尾為景は隠居し
家督を嫡男・晴景に譲ると本庄氏、色部氏は
長尾氏との争いを取りやめるのですが

晴景は器量の乏しい方だったので
それを憂いた越後守護・上杉定実は
自分の後継者を儲ける事を考えます。


それが伊達植宗の子・時宗丸だったそうです。

この時宗丸が後の伊達実元

あの伊達成実の父でございます。



    ┌──────┐
    │      │
    上      │     伊
    杉      │     達
    定      娘━━┯━━尚
    実         │  宗
              植
              宗
              │
              ├───┐
              │   │
              実   晴   
              元   宗


ですが、この時宗丸は
本庄氏が為景と戦った際に
為景方に味方した揚北衆の中条氏の娘が母だったと言われています。


    ┌──────┐
    │      │
    上      │     伊
    杉      │     達
    定      娘━━┯━━尚
    実         │  宗
        中     │     蘆
        条     │     名
        氏     │     氏
        の━━┯━━植━━┯━━の
        娘  │  宗  │  娘
           │     │
           │     │
           実     晴   
           元     宗


この養子縁組が成立すると
中条氏の勢力が強まる事は確実と考えた揚北衆の面々は
この養子縁組に反対します。

この反対派の急先鋒が本庄房長、本庄繁長の父にございます。




この時の本庄家は


     ┌─────┬─────┐
     │     │     │
     小     本     本
     川     庄     庄
     長     盛     房
     資     長     長


房長には二人の弟がおり
長資は小川家に養子となり家督を継いでいたようです。

房長は出羽庄内の豪族・大宝寺氏と連携を組んで
上杉定実・中条氏・伊達氏と戦っていく訳ですが

この房長の台頭に不満を抱く色部氏、鮎川氏が上杉・中条派につき

更に房長が大宝寺氏がある庄内にいた際に
房長の弟・小川長資が兄を裏切り、本庄氏の居城・本庄城を攻め
これを乗っ取ったそうです。

その知らせを聞いた房長はショックのあまり死んでしまいます。
これが1539年の年末だったそうです。




一方、越後では
房長の妻は妊娠中にあって
小川氏の兵と戦い、大怪我を負って倒れていたトコロを
鮎川家の家臣に発見され、近くの寺に担ぎ込まれ
どうにか一命をとりとめ、それから七日後に男児を出産したそうです。

これが1540年の年明け頃の話だそうです。


そして、この子が後の本庄繁長でございます。



生まれてくる過程ですら波瀾万丈なこの男 ̄▽ ̄



幼名は「千代猪丸」

この時点で勇ましい感じがバリバリです ̄▽ ̄b




さて、上杉家と伊達家の養子縁組に関しては
上杉家の家紋を伊達家にあげたり、時宗丸が
上杉定実の「実」の字をもらって実元とまで
なっていたものの、伊達家内部でも
この養子縁組に植宗の子・晴宗が反対。

大きな争乱におよび、その結果、この養子縁組は立ち消えとなります。

で、本庄氏に関しては
本庄城を乗っ取った小川長資や鮎川氏が
本庄家を取り仕切るようになり

これに対して本庄家の家臣は不満を持っていたようです。


しかし「幼少より気性剛強で勇猛」と評されていた繁長


1551年に父・房長の13回忌の場で
千代猪丸の後見人として列席した小川長資を捕らえて
自害に追い込み、これにより千代猪丸は
本庄家の正式な当主となり、この一件により
本庄繁長の名は越後周辺に知れ渡るようになります。


この時、繁長は11歳
この点から見ても、かなり剛毅な性格だったようです。




この時、長資に同調した鮎川氏も討つ意見もあったようですが
それに関しては色部家の当主・勝長の仲裁により
取りやめとなったようです。

その後、長尾家の当主が景虎(後の上杉謙信)となると
繁長は景虎に従い

越中富山城攻め、関東北条氏攻め、川中島の合戦と
各地を転戦し、武功を挙げたそうです。

その本庄家は長尾家中にあって
中条氏に次ぐ第二位の家柄であったそうで
それだけ繁長の力量がどれ程のものであったかがうかがえます。


ですが、景虎の褒賞といえば感状ばかりで
お金や領地がもらえる訳ではなかったので

1568年に繁長は武田信玄の誘いに応じて
上杉謙信に反旗を翻します。

この時、繁長は28歳

そして繁長は同じ揚北衆である色部氏、中条氏、鮎川氏に
協力を求めますが、これらの家は繁長に同調せず
繁長は孤立奮闘で上杉謙信と戦います。

繁長の活躍もあり戦は長期化し、年を越します。

これ以上戦を長引かせたくない謙信は
伊達・蘆名に使いを送り、この両家の仲介によって
繁長は降伏し、戦は集結。

繁長は嫡男・顕長を人質とし所領も削られます。

更に家中の列席として庶流である色部氏が
本家筋である本庄氏の立場を逆転してしまったそうです。


その後、謙信の下での繁長の活躍はなかったそうです。


ですが、謙信公に反抗した繁長の名は
広く世間に知れ渡り、織田信長は繁長に対して
再び謀反を起こすように画策したそうですが
繁長はこれに応じなかったそうです。



繁長の名がようやく表舞台に出るのは
彼が謙信公に謀反を起こしてから10年後の1578年

上杉謙信が死去した後に起こった「御館の乱」です。

繁長の元には景勝、景虎から共に味方になるように
使いの者が来ました。

繁長の妻は上杉景信の娘であり
上杉景信は景虎方であり、息子・顕長も景虎方についたのですが

繁長は周辺の揚北衆が日和見を決め込む中
すぐさま景勝方につきます。


結果、この争いは景勝方の勝利となり

景虎方についた顕長に関しては
廃嫡(家督を譲らない)する事を条件に
その罪を許されます。

こうしていち早く景勝に味方した事により
繁長は上杉家での地位を確立していきます。


この時 繁長 38歳


それから御館の乱後の論功行賞に不満をもって
1581年に謀反を起こした新発田重家に対して

繁長は景勝の命により
色部勝長の子・長実と共に新発田重家と戦います。

本庄繁長はこの時 41歳
色部長実はこの時 28歳

本庄繁長はかつて自分が謙信公に謀反を起こしたように
この時の新発田重家の気持ちがよく分かった事でしょう。

また色部長実の妻は新発田重家の妹ですから
これまた新発田重家の気持ちがよく分かった事でしょう。

本庄繁長は新発田重家討伐の中心となり

その後、景勝は繁長に対して
上杉家の「竹に飛雀」の家紋を譲り
古志長尾家の座敷を繁長に与えます。

これは景勝が繁長に対しての信頼の証とも言えます。

それから景勝が上洛した際には
繁長は色部長実と共に春日山城の留守を任されます。

その後、新発田重家を討ち
繁長は上杉家の重鎮となります。


さて、同じ頃の上杉家の隣国
「最上・上杉の草刈場」と呼ばれた出羽庄内では
庄内の豪族・大宝寺氏が最上氏の攻勢にさらされたので
大宝寺氏は上杉氏に支援を仰ぎます。

それを受けて以前より大宝寺氏と誼を通じていた
繁長は次男・千勝丸(後の義勝)を大宝寺氏の養子にします。

ですが、本庄繁長が新発田重家攻めで動けない間に
1587年に最上義光が大宝寺氏を攻め、大宝寺一族は滅亡

養子となった繁長の子・義勝は本庄繁長の下に落ち延びます。

しかし、その最上義光が伊達政宗と争っている間隙を狙い
繁長は義勝と共に庄内に侵攻し最上義光に勝利を収めます。

この時の戦は激しいもので敵将の一人・東禅寺勝正が
本庄繁長に斬りかかり繁長の兜にその刃が深く食い込んだそうで。

東禅寺勝正は討たれたのですが
本庄繁長の兜を斬ったその刀は後に
正宗と分かり、この刀は後に「本庄正宗」として名が知れ渡ります。


庄内地方を治めることになった義勝を豊臣秀吉に謁見させ
義勝を上杉家の与力大名として公認させます。

1590年に秀吉の命により
上杉景勝が庄内地方の検地を行うと
繁長は色部長実と争いを起こし

その直後、庄内地方で一揆が発生します。

一揆は鎮圧されますが
繁長・義勝親子は庄内地方の一揆を扇動したとの嫌疑を受けて
改易され大和国に配流されます。


この件に関しては本庄繁長が一揆を画策したと考えられなくもないですが
個人的には本庄繁長と対立した色部長実と

上杉家での家老の立場を絶対的なものにしたい直江兼続との
思惑が合致して、本庄繁長はハメられたとも考えられなくはないです。





この時の生活に困窮し、繁長はあの「本庄正宗」を売ったそうですが
その売った相手が豊臣秀次とも徳川家康とも言われておるそうで。

まぁ後々の事を考えて、ここでは
徳川家康に売った事にして話を進めていきます。

その方が私の妄想の都合がよいので ̄▽ ̄ゞ


その後、1592年の文禄の役に参陣した事で
その罪を赦され、繁長は上杉家に帰参します。


さて、この頃の上杉家中はというと


     須
     田
     満
     親   ┌───────────┐
     │   │           │
  ┌──┼─────┐   本     直     色
  │  │   │ │   庄     江     部
  │  │   │ 娘━━━繁     兼     長
  │  │   │     長     続     実
  長  満━━━妹     │     │     │
  義  胤         │     └──┐  │
            ┌──┴─────┐  │  │
            │        │  娘━━光
            大        長     長
            宝        房
            寺
            義
            勝



本庄繁長は上杉家中で直江兼続に次ぐ地位にある須田満親を継室に迎え
本庄繁長の40歳の時に誕生した三男・長房を直江兼続の養子にしております。

しかし、1594年に
直江兼続に実子・景明が誕生すると長房は本庄家に戻ったそうです。


一方の色部長実は1592年の朝鮮出兵の際に病に倒れ
上杉家の筆頭家老であった直江兼続に兼続の娘を自分の息子・光長に
迎えて欲しいとの遺言を残し、それによって色部家の家督を相続した
光長を兼続は重用したそうです。


また、須田満胤は直江兼続の妹を娶り
一子・満統を儲けておりますが、その満胤が1597年に仕事の不備により
改易され浪人となると、その妻子は本庄繁長を頼り
その後、満統は直江兼続のとりなしで米沢藩に帰参したそうです。

こういう感じで繁長は当時
上杉家中で筆頭家老となっていた直江兼続と縁戚関係になる事で
家中での権力を高めようとしているようですね。



その後、景勝の会津国替えに際して
繁長は国替えについていき、守山城城代となり
その後、福島城城代となります。


福島城は北上すると白石城、青葉山城があり
梁川城城代・須田長義と共に伊達軍の侵攻に備えます。


そして関ヶ原の合戦において
伊達政宗は片倉景綱・茂庭綱元らを率いて上杉領へ侵攻

ここで激戦が繰り広げられ
結果的に伊達政宗は破れ、自国へ撤退します。

この時
本庄繁長 60歳
伊達政宗 33歳

この戦に関して描かれた物語に関しては
『奇策』が面白いかと思います ̄▽ ̄ゞ


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60歳にして剛毅なだけでなく老練さも加わった
本庄繁長の凄さが目を引きます ̄▽ ̄b




一方、関ヶ原の戦いが家康の勝利に終わり
最上家を攻めていた直江兼続が敗退すると

上杉家中で
徳川家康に対して徹底抗戦を貫くべきか
講和をすべきか軍議が行われたそうで

上杉家は徳川家康と講和を結ぶことになり

1600年 11月に
本庄繁長は上洛し、伏見留守居役・千坂景親と協力して講和に奔走します。

それにより上杉家の存続が認められたものの
会津120万石から米沢30万石へ減封

1601年に上杉景勝と直江兼続は上洛して家康に謝罪します。


そして1602年
本庄繁長に末子・重長が誕生します。

本庄繁長 62歳の時の子です ̄▽ ̄ゞ



それから1604年
直江兼続は本多正信と接近し
正信の子・政重を婿養子に迎えます。

政重の妻が病死すると
兼続は弟・実頼の娘を妻にします。

その政重が1612年に突如上杉家を出奔して
加賀前田家に帰参すると、これに多くの上杉家家中の者達が
加賀前田家に仕えます。

この中には本庄繁長の三男で
かつて直江兼続の養子だった長房もいました。


こうした背景には
本多政重が徳川の密偵で父・本多正信の命によって
加賀前田家に仕えるように命じたという向きもあるのかもしれませんが

本多政重が高禄で召抱えられる事で
貧窮に苦しむ上杉家中の者達を受け入れるための
ものでもあったとも考えられます。

米沢藩は誰一人リストラをしなかったと言う訳ですが
そこから少しでも藩士達を救うために出奔したという向きも
あるんじゃないかなと思います。


その後、繁長は米沢藩の再建に奔走し
1614年に本庄繁長は74歳の生涯を終えます。




生まれる時から波瀾万丈で

11歳にして父の仇である叔父を自害に追い込み

更に武勇で戦功を挙げるも論功行賞で上杉謙信と戦い

御館の乱ではいち早く景勝方となり再び活躍するも

一揆問題で秀吉に改易されたりして

そして関ヶ原の合戦では伊達政宗と戦い

その後、上洛して家康と講和交渉するという

なかなかに激しい一生を送っております。







これほどまでに剛毅で波瀾万丈な一生を遂げた繁長を演じるとしたならば


こないだ、白洲次郎を見た影響で伊勢谷さんの線もいいと思いますし

こういうキャラこそオダギリジョーさんとかハマりそうな気もします。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
ikasama4様、こんにちは。
兼続ヨイショのために存在すら許されない
越後の武将の皆さん・・・哀れでございます。
本庄氏は栃尾城の秀綱が景虎についたという一点で
脚本家の頭には本庄氏そのものが消滅してしまった
と邪推するばかりです。
揚北衆不在の上杉氏なんて・・・
でございますよねーっ。
だから・・・
本庄長房(直江与次郎)もいない。
このまま本多政重もいないのかと思ったら本郷猛です。
菊姫の弟、武田信清の娘は本庄重長の正室になるし。
信清の子・勝信の正室は本庄長房の娘(お船養女)だし。
もう血縁的にも上杉家とはきってもきれないのに・・・。
困ったもんだーっ。
オダジョー繁長だとすると
魚津城篭城組の山本寺景長の一子
山本寺勝長の正室となった妹は長澤まさみ?
すると初音の正体は・・・・。
武田・真田・本庄の妄想渦巻きます。
悪い叔父さん長資は千原ジュニアでOK?
正室は上杉景信の妹として麻生久美子。
侍女にふせえりと江口のりこをつけてください。
おお・・・真田昌幸は今のままか・・・。

新発田重家は豊原功補か・・・。
ちょっと違うかもしれないといっても過言ではないのだ。
キッド
2009/09/27 01:49
キッド様
こんにちはでございます。
揚北衆の物語がない上杉家なんて
なんじゃそりゃですねぇ。

でもって、あの正信から
本郷猛が生まれる訳ですかぁ。

とにかくイケメン
なんじゃそりゃですねぇ。

直江家と本庄家の密接な関係がないのも
なんじゃそりゃですねぇ。

長澤まさみはお腹いっぱいなんで
小出早織さんか池脇千鶴さんでお願いしたいとこです。

長資の千原Jrはバッチリ( ̄ー ̄)b

新発田重家は緋田康人さんで
直江兼続は豊原功補さんにして
素っ頓狂キャラをやってもらうのもいいかも。

配役的に年齢的には無理があったとしても
それは大河ではいつもの事なので問題ないのだ。
ikasama4
2009/09/27 11:30

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