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zoom RSS ドラマ化して欲しい戦国武将 「浅井亮政・久政・長政」

<<   作成日時 : 2009/08/08 01:18   >>

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今回は浅井亮政、久政、長政
浅井三代でございます。


例によってまずは浅井家に関してあれこれ。


浅井家は元々は近江国の国人衆で京極氏の譜代家臣だったそうです。


で、京極氏に関しては簡単に説明すると

鎌倉時代にまで遡ります(; ̄∀ ̄)ゞ


まず、源頼朝のために働いた佐々木氏があり
その功績から近江などの守護を命じられます。

その後、すったもんだあって
佐々木氏の当主は近江を四人の息子に分けて継がせます。


その本家筋に当たるのが六角氏で、分家のひとつが京極氏です。



            佐
            々
            木
            氏
            │
      ┌───┬─┴─┬───┐
      │   │   │   │
      大   高   京   六
      原   島   極   角
      氏   氏   氏   氏



で、六角氏は宗家であり京極氏は分家だったのですが
後にこの状況が逆転します。


それが鎌倉幕府の執権職にあった北条氏の滅亡ですね。

この攻防においてこの時の京極氏の当主であった京極高氏
この名前よりも『佐々木道誉』の方が有名だと思いますが
彼は南北朝時代にあっても足利尊氏に仕えた方ですからね。

この時の功績により京極家の権威は更に強まります。

一方、宗家であるはずの六角氏は最後まで鎌倉幕府に味方した事で衰退し
それ以降、六角家と京極家は敵対関係となります。

応仁の乱で京極氏が東軍になれば六角氏は西軍みたいな感じで ̄▽ ̄

ですが、その11年にも及んだ戦いで京極氏も徐々に衰退し
代わりに京極氏を補佐する家臣や守護代が力をつけてきたという

そうした京極家の家臣団の有力な家柄として
上坂氏や浅見氏があったそうですが、その中のひとつに
浅井家があったという事のようです。



さて、その浅井家ですが、時の当主・浅井直政には男子の跡継ぎがいませんでしたので
浅井の庶家から婿養子を取ることになりました。

そして浅井直政の娘・蔵屋と婚姻して浅井宗家の当主となったのが
浅井直政の伯父・浅井直種の子である浅井亮政です。



             浅     浅
             井     井
             直     直
             種     政
             │     │
             │     │
             亮━━━━━蔵
             政     屋


浅井亮政が浅井家当主になった頃
主家である京極家では当主・京極高清が当時
京極家ではかなり力を持っていた上坂氏の助力を得て次男・高吉を跡継ぎにしようとすると
同じく京極家の家臣であった浅見氏と浅井亮政は高清の長男・高延を跡継ぎに推し
これによって京極家中は内紛状態になります。

そして浅見氏と亮政は高清達を近江から追放して
高広を当主として京極家の執政を取り仕切ったそうです。

まぁ京極高広は完全なる傀儡ですけどね ̄▽ ̄

それから、京極家で浅見氏が筆頭家老となって
専横を行ったらしく、亮政は他の国人衆らと共同して浅見氏を近江から追放し
亮政が京極家の筆頭家老になります。

亮政は武勇に優れた方だったそうですからね。

この辺は亮政の実力が認められたって事でしょうね。





しかし、そんな状況を快く思わない方がおられました。


それが南近江の守護で京極家の本家筋に当たる六角氏です。

この時の当主は後に名君と呼ばれ
六角家の最盛期を築いた六角定頼でした。


六角定頼は浅井亮政の台頭で混乱している北近江の現状を
六角家がその領地を支配する機会と考え

反亮政派や京極高吉派の国人衆を集めて浅井亮政討伐を開始します。


これに対し、亮政は
六角定頼が強かったせいもあって越前や美濃に逃亡したりもしましたが
反六角派の勢力を集めて、浅井家の基盤の確立していきます。


そして、京極高清・高吉親子と和解し亮政の居城・小谷城に住まわせる事で
更に北近江の基盤を固めていったそうです。

ちなみに浅井家の家臣となった国人衆で有名なのが
海北家、赤尾家、雨森家の三家ですかね。

この三家を「海赤雨の三将」と呼んだそうですからね。


それからこの頃、亮政は朝倉氏と同盟を結んだようです。

朝倉氏にはあの朝倉宗滴がおりますからね。

亮政には朝倉宗滴がいる朝倉家と同盟を結ぶ事で六角氏の侵攻から
助けてもらおうとしたんでしょうね。

家格に関しては朝倉氏の方が上になるんでしょうが
そこは結構対等というか浅井氏という無官の国人衆の立場では有利な同盟だったんでしょう。


また、
朝倉家が上洛する場合に京への通り道に浅井氏が治める北近江がありましたからね。

それを抑える上でも
朝倉家にとって、この同盟には利があるという事でしょうかね。



そうして亮政は戦国大名AND浅井家初代当主として認められていきます。



さて、亮政には正室・蔵屋の他
尼子馨庵という側室がいたそうです。



                   浅
                   井
                   直
                   政
       尼           │
       子           │
       馨━━━━━亮━━━━━蔵
       庵     政     屋





蔵屋は「我が家にては金銀を宝とせず、慈悲を持って宝となすべし」と述べていたらしく
清廉な方だったようです。

尼子馨庵はあの出雲の尼子氏の出です。
ちなみに尼子家は京極家の分家になります。

蔵屋と尼子馨庵との仲は良く、奥向を治めてきたそうです。


それから亮政は1542年に亡くなります。

その後継者に関しては二人の人物がおりました。



       尼            
       子           
       馨━━┯━━亮━━┯━━蔵
       庵  │  政  │  屋
          │     │      田
          │     │      屋
          久     娘━━━━━━明
          政            政



一人は側室・尼子馨庵との間に生まれた久政。
もう一人が蔵屋との間に生まれた娘を妻とする田屋明政でした。

ちなみに久政の出生に関しては他にも諸説あり
久政は六角氏の出の娘が母ではないかとも言われています。


で、浅井家の家督は久政が継ぐ事になったそうで
この家督相続に関して田屋明政が争ったという説と
自ら身を引いて家督争いをしなかったという説があるそうです。



ただ、浅井久政は父・亮政と比べると武勇が劣っていたのですが
内政面や外交面では優れて手腕を発揮したようです。

内政面に関しては灌漑・治水事業の拡大とか
寺社仏閣に対して所領を安堵したり税制の強化を行ったりして
国内の基盤を固めていきます。


外交面に関しては
朝倉宗滴が亡くなった事で朝倉家の力が弱まり
それを受けて浅井家は京極高吉や美濃の斎藤氏の侵攻を受けています。

そのような状況に対して久政は京極家との仲を改善するために

自分の娘・マリアを京極高吉の下に嫁がせ
久政の長男に六角氏の家臣である平井氏の娘を娶り、六角家と同盟を結びます。

六角家は定頼が亡くなり、その後を息子の義賢が継いでいましたが
父が作り上げた六角家の力はまだまだ健在でした。

浅井氏は六角氏と同盟、それが従属的な形であれば
それは浅井の六角氏の庇護を受ける形となり
それによって他国から浅井家が守れるという判断もあったんでしょうね。

また、京極高吉と婚姻関係を築く事で
京極高吉派の国人衆の取り込みを図ったのでしょうね。

ちなみに久政は長男に六角義賢の一字をもらい「賢政」と名乗らせています。


それから賢政(後の浅井長政)には政元、政之と二人の弟と
阿久姫という姉がいたそうです。


阿久姫は6歳で出家したため、生涯独身だったそうです。

幼い頃から身長が高く
170cmを超える長身のために嫁げる相手がいなかったとも言われています。



         尼     浅      
         子     井     
         馨━━┯━━亮━━┯━━蔵
         庵  │  政  │  屋
            │     │            田
            │     │            屋
            久     海━━━━━━━━┯━━━明
            政     津        │   政
            │     殿        │
            │              ├──┐
            │              │  │
    ┌───┬───┼───┬───┐      饗  海
 平  │   │   │   │   │   京  庭  津
 井  政   政   │   阿   マ   極  局  局
 氏  之   元   │   久   リ━━━高
 │          │   姫   ア   吉
 │          │
 娘━━━━━━━━━━賢
            政




ですが、浅井家の家臣団はこのような久政の外交を弱腰と見て
1560年に嫡男・賢政を当主に担ぎ、これを受けて賢政は名を「長政」と改め
平井氏の娘と離縁し、六角家と戦い、これに大勝します。

この時、浅井長政は15歳です。

そして、家臣達によって家督は長政に譲られ、久政は強制的に隠居させられ
琵琶湖に浮かぶ竹生島に幽閉されたそうです。

これより三代目にして浅井家最後の当主・浅井長政の時代が始まります。



         尼     浅      
         子     井     
         馨━━┯━━亮━━┯━━蔵
         庵  │  政  │  屋
            │     │            田
            │     │            屋
            久     海━━━━━━━━┯━━━明
            政     津        │   政
            │     殿        │
            │              ├──┐
            │              │  │
    ┌───┬───┼───┬───┐      饗  海
 平  │   │   │   │   │   京  庭  津
 井  政   政   │   阿   マ   極  局  局
 氏  之   元   │   久   リ━━━高
 │          │   姫   ア   吉
 │          │
 娘          長
            政


ちなみにこの長政が父親から当主の座を奪い取った事件に関して

後日、隠居して琵琶湖の孤島に幽閉された久政が
小谷城に戻り、後に織田家と朝倉家との対立に関して
朝倉につくように主張し、それを長政が受け入れたというのは

普通、こういう形で当主の座が奪われたのであれば
久政にそのような発言力自体なかったのではないかと思われます。


なのでこの長政の家督相続に関しては
久政のやり方に対する家臣の不満を息子・長政に譲る事で鎮め
家臣の結束を高めるための芝居ではなかったと見る事も出来るそうです。


その部分で考えると久政はかなり切れる人物だったのかもしれません。


で、浅井家と敵対した六角家なんですが
まもなく当主が筆頭家老を殺害するという事件が起き
このため、六角氏から浅井氏に鞍替えした者が多かったそうです。





さて、それから間もなく浅井長政は織田信長と同盟を結び
信長の妹・市を娶ります。



       尼     浅      
       子     井     
 ┌──┐  馨━━┯━━亮━━┯━━蔵
 │  │  庵  │  政  │  屋
 │  織     │     │            田
 │  田     │     │            屋
 │  信     久     海━━━━━━━━┯━━━明
 │  長     政     津        │   政
 │        │     殿        │
 │        │              │
 │   ┌──┬─┴─┬──┬──┐      ├──┐
 │   │  │   │  │  │      │  │
 │   政  政   │  阿  │      饗  海
 │   之  元   │  久  │      庭  津
 │          │  姫  │      局  局
 │          │     │   京
 お          長     マ   極
 市━━━━━━━━━━政━━側  リ━━━高
               室  ア   吉



この同盟に関しては浅井家中で
織田派と朝倉派で大分もめたようです。

というのも織田と朝倉はとっても仲が悪いという事で。

どうして仲が悪いのかというと
朝倉家と織田家は元々守護職にあった斯波氏を補佐する
守護代にあったのですが、朝倉家は越前を実力で奪い取った。
つまり主家である斯波氏に対して謀反を起こしたという事ですからね。

この時、まだ斯波氏の家臣であった織田家は
そんな朝倉家が許せず、その因縁が代々に続いているという事のようです。

そんな織田家も信長の代には斯波氏を傀儡にして
結果的に追放したんですけどね ̄▽ ̄



まぁそれはそれとして朝倉家と同盟を結んでいる浅井家が
織田家と同盟を結んだら、もし朝倉家と織田家が戦った場合に
どちらかを裏切らなければならないという事になるのですからね。

で、その両家に対する恩義という点に関しては
祖父の代からの同盟を結び、助けられた朝倉家の方に
恩義があるという事になります。

そこで長政は信長との同盟に際して
「朝倉と戦わない事」を条件に結んだそうです。


ですが、織田家との同盟はデメリットばかりではなかったようで。

今川義元を討ち取り、美濃国を統一した事で
織田信長の知名度は世に大きく知れ渡っていました。

そんな織田家と同盟を結べば北近江の支配も磐石になるという
思惑が浅井長政にはあったと思われます。



ですが、1570年
織田信長が徳川家康と共に朝倉義景を攻めます。



これに対して浅井長政は朝倉派の家臣と父・久政の意見もあり
朝倉を助けるために織田・徳川連合軍の背後を突くために進撃します。


それを受けて織田軍はすぐさま自国へ撤退します。

ここで織田軍に対してあまり被害を与えれなかったのが
浅井家にとっては痛いところだったのでしょうね。





そして、浅井家と織田家の運命の一戦が姉川で行われます。

織田・徳川連合軍が率いる兵は

織田軍2万3千
徳川軍  5千

合計 2万8千


浅井・朝倉連合軍が率いる兵は

朝倉軍1万3千
浅井軍  5千

合計 1万8千


と言われています。

そして、姉川を挟んで

朝倉軍VS徳川軍
浅井軍VS織田軍

で、戦が始まります。


織田と浅井との戦いは
兵力から考えれば織田軍は浅井の4倍以上の兵力でしたから
戦は織田家に有利になるはずですが、浅井長政が率いる兵は
精鋭部隊で先陣・磯野員昌の猛攻により織田軍の陣を次々に撃ち破り
織田軍の敗色が濃くなってきたそうです。

しかし、織田軍の後詰であった稲葉一鉄らが援軍に駆けつけ
浅井軍の側面を突き、これにより浅井軍は敗れます。

一方、徳川と朝倉との戦いは
兵力から考えれば朝倉軍は徳川の2倍以上の兵力でしたから
戦は朝倉家に有利になるはずですが、徳川家康が率いる兵は
あの本多忠勝と榊原康政の二将ら精鋭部隊で朝倉軍を撃ち破り
朝倉軍は敗走します。


この戦で浅井家は長政の弟・政元、政之や多くの重臣達を失います。

その中でも遠藤直経の死は痛かった事でしょう。

遠藤直経は浅井家の諜報活動を行っていたとされ
そのため忍との関係があったと言われています。

浅井家と織田家の同盟の際には織田信長の暗殺計画を進言したとされますが
長政には受け入れられませんでした。

織田信長が朝倉家を攻めた際には
遠藤直経は織田につくべきと主張したそうですが
これもまた長政には受け入れられませんでした。


で、姉川の合戦で浅井家の敗退が濃厚になった際
遠藤直経は織田家の武将になりすまして信長の暗殺を図ったそうです。

ですが、後一歩のところで
竹中半兵衛の弟に正体を見抜かれ、捕まえられて斬首されたそうです。


何故、竹中半兵衛の弟が遠藤直経を見抜いたかについては

かつて竹中兄弟が斎藤家を離れた事があり
その時、客人として浅井家にいた事があったから
遠藤直経の顔を知っていたのではないかという事らしいです。

それから本願寺、毛利、武田などの諸大名により
信長包囲網が形勢されると長政は本願寺・延暦寺や朝倉氏と
連携を結んで信長を攻めますが

信長はその延暦寺を焼き討ちにし

浅井の支城を次々に攻略。

姉川の合戦で活躍した磯野員昌も調略され、織田家に寝返ります。

まぁ彼の場合は兵糧攻めに合い
その間に秀吉の流言によって浅井長政は磯野員昌を疑い
それによって止む無く磯野員昌は織田方になったようです。



1572年
織田信長が5万の大軍を率いて北近江を攻めると
浅井長政は朝倉氏に援軍を要請、それを受けて
朝倉義景は1万5千の兵を率いて近江に駆けつけ
戦況はこう着状態となります。

そんな中、武田信玄が2万7千の兵を率いて三河へ侵攻

その際、武田信玄は浅井・朝倉両家に
織田軍を北近江に足止めする事をお願いします。

そうすれば織田軍は浅井・朝倉と武田で挟み撃ちに出来
織田に勝てる唯一の勝機でもありました。



しかし朝倉義景は冬が近付くと
このままでは国に帰れなくなると言って越前に帰国。

これにより北近江に対する脅威がなくなった事で
織田軍は悠々と美濃に退却。

これには武田信玄も怒りの手紙を朝倉義景に送ったそうですが
当の朝倉義景はそれを無視です ̄▽ ̄


で、その後
信玄は病死した事で織田信長は浅井・朝倉に対して
積極的に戦うようになります。


1573年
信長は北近江に侵攻。
長政は義景に援軍を要請し、それに応じて
義景は2万の兵を送ったものの、すぐさま越前に撤退。

信長は義景を追撃し、朝倉氏を滅亡させます。


で、すぐさま浅井家を攻めます。

北近江のほとんどの諸将は織田方に寝返り
後は浅井家の居城・小谷城を残すのみとなり、信長は小谷城を包囲します。

しかし、信長は浅井長政の事を高く評価していたようで
何度も降伏勧告を行ったそうです。

しかし、長政はその勧告を断り続けました。

一方、長政と仲がよく夫と運命を共にする覚悟であった妻・市に対しては
信長の下に帰るように諌めます。

市が信長の陣営に帰還する際には浅井・織田の両軍共に一切の攻撃をしなかったそうです。

その後、織田軍の総攻撃を受けて
8月27日に浅井久政が、そして9月1日に浅井長政は自害します。

浅井久政 47歳
浅井長政 29歳


ここに浅井三代で築き上げた戦国大名・浅井家は終わりを告げます。
















余談ですが、小谷城落城の折、長政は姉・阿久姫に
茶々・初・督の三人の娘の養育を依頼したと言われています。

それから阿久姫は秀吉に知行を与えられ
三霊殿を創営して浅井三代を祀ったそうです。


饗庭局は茶々の乳母の一人で
淀殿と江戸方との交渉では使者を務め、淀殿と共に自害したそうです。

その姉である海津局は
千姫を大坂城から救い出し、督姫と千姫に仕えたそうです。
彼女の夫・浅井政高は大坂の陣で豊臣方となって戦い戦死。
彼女の子は三好姓を名乗り徳川家の旗本となったそうです。

長政と側室の子・くすは幼少期から
京極家の世話を受け、彼女は竜子(後の松の丸殿)の乳母・侍女となったそうです。

その松の丸殿は秀吉の死後
実家・京極家に身を寄せ、北政所と淀殿と親交をとっていたらしく

大坂夏の陣の後には淀殿の侍女を保護し
処刑された秀頼の子・国松の遺体を引き取ってお寺に埋葬したそうです。



で、茶々、後の淀殿は
秀吉にお願いして亡父・浅井長政を供養するための寺院を建てます。
寺院の名は「養源院」

これは浅井長政の院号「養源院」から取っています。

その後、淀殿の妹で徳川秀忠の妻・督によって
「養源院」は徳川家の菩提所となります。

そして、浅井長政の死から59年後の1632年
長政は従二位中納言の官位を贈られます。

それはこの時の将軍・徳川家光が
浅井長政の孫にあたるからだそうです。



       尼     浅      
       子     井     
 ┌──┐  馨━━┯━━亮━━┯━━蔵
 │  │  庵  │  政  │  屋
 │  織     │     │             田
 │  田     │     │             屋
 │  信     久     海━━━━━━━━━┯━━━明
 │  長     政     津         │   政
 │        │     殿         │
 │        │               │
 │   ┌──┬─┴─┬───┬───┐     ├──┐
 │   │  │   │   │   │     │  │  浅
 │   政  政   │   阿   │     饗  海  井
 │   之  元   │   久   │     庭  津━━政
 │          │   姫   │     局  局  高
 │          │       │   京
 お          長       マ   極
 市━━━━┯━━━━━政━━┯━側  リ━┯━高
      │        │ 室  ア │ 吉
      │        │      │
  ┌───┼──┐     │   ┌──┼──┐    
  │   │  │     │   │  │  │
  │   │  │     く   高  │  │
  │   │  │     す   知  │  │
  │   │  │            高  │
  │   初━━│━━━━━━━━━━━━次  │
  │      │               │
  │      │               松
  │   徳  │   豊           の
  │   川  淀   臣           丸
  督━┯━秀  殿━┯━秀━━━━━━━━━━━殿
    │ 忠    │ 吉
    │      │
    │      │
 ┌──┤      │
 │  │      豊
 │  │      臣
 家  千      秀
 光  姫━━━━━━頼



こうして見るとなんとも豪華に見えてくる系譜ですね ̄▽ ̄

浅井家滅亡後
浅井の女達が浅井の繁栄を作り上げたようなトコロがありますが
それは再来年の大河で描かれるのかもしれません。





さて、話を戻して
その浅井家について

浅井亮政は宅麻伸さんか榎木孝明さんで

浅井久政は西村和彦さんか葛山信吾さんで

浅井長政は田中圭さんか向井理さんではいかがでしょうか。



浅井亮政と浅井久政に関しては
まず、過去に浅井長政を演じられた方を基準にして

後は年代的に祖父・父の関係が成り立つくらいの年齢と
武勇に優れた亮政と武勇は父に劣るものの内政と外交に優れた
久政の雰囲気で選んでみました ̄▽ ̄ゞ


そして浅井長政に関しては選んでみた基準は


1.イケメン

2.幸が薄そう




この二つでございます(; ̄∀ ̄)ゞ



もうひとつは
一見して穏やかな表情ながら、鬼のような形相で織田家と戦った
浅井長政のイメージがあるもので ̄▽ ̄


ちなみに信長には渡部篤郎さんとか堺雅人さんとかがいいかなと。

笑いながら人を斬れるような非情な性格が逆にいいかなと思ったもので ̄▽ ̄ゞ

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2010/12/31 15:25

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
ikasama4様、こんばんは。
出自不詳の浅井氏。すでに存在そのものが妄想的です。
亮政/宅麻伸なら尼子馨庵/名取裕子ついでに蔵屋/賀来千香子
なんとなく六角定頼/野口五郎
久政/西村和彦なら小野殿/片平なぎさ
なんとなく六角義賢/高嶋政宏
浅井長政/田中圭なら市姫/ミムラ
織田信長/渡部篤郎で木下藤吉郎/松山ケンイチついでに寧々/木南晴夏
前半、法医学的に陰謀渦巻き、後半、銭ゲバ的に陰謀渦巻きます。
そして遠藤直経/遠藤憲一でお願いします。

碧いうさぎ事件で寝不足の中・・・妄想キャスティングで和みのひとときが
すごせて・・・幸せでございましたーっ。


キッド
2009/08/09 03:44
いつも思うのですが、もし浅井久政が数年早く死んでいて、完全に長政の代になっていたら、彼は朝倉を見限って織田につき、お市を介して強固な織田・浅井提携が出来たのかなぁと。
個人企業などでも、息子の代になると、昔からの義理を切って、新しい時代に合わせていく、ということはよくありますよね。
信長・秀吉メインの大河では、必ず出てくる浅井ですが、浅井家を中心にじっくりその盛衰を描くというのは、非常に貴重なものになるでしょうね。
お市のイメージも従来とは大分変化してきて、運命に弄ばれた薄幸の美女というイメージから、同じ悲劇の美女であっても、全力を尽くすも力尽きた女性外交官というイメージが、女性作家を中心に定着してきたようです。
何にしても、浅井の男たちは全滅してしまった後も、密かにその血脈は、徳川七代将軍まで続いていたということは、すごいことですね。
SFurrow
2009/08/09 07:55
キッド様
こんばんはです。
なるほど、法医学なサスペンスで
銭ゲバときましたか。

そうなると織田信長は椎名さんでも
いいですねぇ。

遠藤さん繋がりの遠藤さんも
なかなかいい感じでございます ̄▽ ̄b


巷は碧いうさぎ一色と言っても
いいくらいの騒ぎですからねぇ。

当分、これは収束しそうにないですね。
正しく一寸先は闇。

彼女もまた、もう一人の私達かもしれません。
ikasama4
2009/08/09 19:28
SFurrow様
そうですねぇ。
もし、浅井久政が亡くなっていたら
というのもありますが

もし、信長が長政に一度断って
朝倉を攻めていたら

浅井が取る道も変わっていたのかもしれません。

>個人企業などでも、息子の代になると、昔からの義理を切って、新しい時代に合わせていく、ということはよくありますよね。
それが代変わりの利点ですからね。

一方で浅井の女達が家を守るために
自分が出来る事を懸命に行ってきたのは印象的でした。

>何にしても、浅井の男たちは全滅してしまった後も、密かにその血脈は、徳川七代将軍まで続いていたということは、すごいことですね。
そうですね。
これは家を滅ぼされたからこその執念のなせる業なんでしょうね。
ikasama4
2009/08/09 19:29
信長は浅井長政を、徳川家康と共に織田家を支える両翼としたかったのだと思います。
具体的には家康を武田信玄への防波堤にしたように、長政は上杉謙信への防波堤として後方を固め自らは畿内の完全掌握(本願寺勢力への完全勝利)を構想していた、とか。

長政の離反で信長の天下取り構想が大幅に狂いが生じたんじゃないでしょうか?

家康が 駿河・遠江・三河3国の大大名になった様に長政も信長配下に留まる決断をしていれば北近江と越前・若狭を与えられる位の待遇は受けられたんじゃないかと・・・
李常傑
2012/08/04 14:47

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ドラマ化して欲しい戦国武将 「浅井亮政・久政・長政」 渡る世間は愚痴ばかり/BIGLOBEウェブリブログ
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