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さて、今回ご紹介する方は 今の大河とすれば全くのま逆の人間です ̄▽ ̄ゞ まず、直家を説明する前に宇喜多家について簡単に説明すると 宇喜多氏は 鎌倉時代より播磨一体を支配した守護大名である名門・赤松氏を 補佐する役目にあった守護代・浦上氏の家臣でした。 戦国時代になると浦上氏は主家である赤松氏から独立を図ろうとし それに伴って赤松氏と争います。 そうして、浦上氏は赤松氏に対して謀反を起こして兵を挙げます。 下剋上というやつです。 当然ながら赤松氏もそれを口実に浦上氏に対して討伐の兵を挙げます。 その時、大いに活躍したのが浦上氏の家臣で直家の祖父である宇喜多能家だったそうです。 宇喜多能家の智勇に武将として有名で 少数の兵で敵方を幾度となく撃退したり、敵方を寝返らせたりと 縦横無尽の活躍で浦上氏を勝利に導いたそうで その活躍には赤松氏のみならず時の管領・細川氏にも届き、その細川氏から馬を一 頭賜ったそうです。 しかし、そんな宇喜多能家を快く思わない方が浦上家中にいたようで この時の浦上氏の当主が赤松氏との戦により戦死した事に伴い、宇喜多能家が隠居 して 家督を息子・興家に譲ってから数年後の1534年 浦上氏家臣であった島村盛実が宇喜多能家と仲が悪かった異母弟・浮田国定と謀っ て 宇喜多能家の居城・砥石城に攻めかかります。 これを受けて宇喜多能家は自害したそうです。 そして、息子の興家はというと 島村盛実に城を明け渡し、幼い息子・直家を連れて鞆の浦(広島県福山市)に落ち 延びます。 この時、直家は6歳。 その後は備前の福岡にある豪商の庇護を受け、この時に豪商の娘を娶り忠家が生ま れますが それからまもなく興家は亡くなったそうです。 それから直家は伯母である尼僧の下で過ごしたそうです。 そうして数年の時が流れた1543年。 14歳になった直家は浦上氏に仕官したそうです。 この頃の浦上氏は 浦上政宗が当主でその家臣として弟・宗景がいました。 この時、直家は宗景に仕官したそうです。 かつて祖父・能家の代より仕えし家臣達の助力もあったようで 軍功を重ねて元服し宇喜多直家と名乗り浦上家の武将として認められたそうです。 それから直家は浦上氏の領内でも敵方の最前線に当たる乙子城の城主に志願し そこでも軍功を重ね、更に所領を与えられたそうです。 この頃、直家は能家の代より仕えし家臣に加え 必要以上に兵卒を集めていたために、いつも兵糧が乏しく家臣一同自ら耕作してい たそうで それでも兵糧が不足した際には直家をはじめ家臣一同が1か月に3〜5度の割合で 絶食し 食糧を蓄えていたそうです。 この時の経験が直家と家臣に強い結束力が生まれたみたいです。 そうして1551年、直家22歳の時 出雲の尼子氏が南下してくるとその対応に関して 尼子氏と同盟を結ぶ事を主張する政宗に対して 弟・宗景は尼子氏と戦う事を主張したために 両者はと対立し浦上家は政宗方と宗景方の二つに分裂してしまったそうです。 この時、砥石城主で直家の同族である浮田国定は政宗方に属します。 そこで浦上宗景は直家に砥石城攻略を命じます。 砥石城は亡き祖父・能家の居城であり 浮田国定はその祖父を自害に追いやった人物の一人ですからねぇ。 直家と国定との抗争は5年にも及びますが ついに直家は浮田国定を討ち果たし砥石城は落城します。 さぁて、ここから直家の本領発揮です ̄▽ ̄ 1559年 直家30歳。 この時、浦上家家臣である中山備中守信正と島村備後守盛実が 浦上氏に謀反を起こそうとしているとして 直家が中山備中守信正、島村備後守盛実の両名を謀殺します。 島村盛実は祖父・能家を自害に追い込んだ張本人という事で その恨みからこのような事に持ち込んだとも考えられますが 中山備中守信正は直家の妻の父親ですからねぇ。 この後、直家の妻は自害したとも出家したとも言われています。 ちなみに直家は中山備中守信正、島村備後守盛実が持っていた 所領の大半を与えられます。 1561年 直家32歳 備前の松田元輝と敵対していた直家は 松田元輝の家臣・さい所元常が守る龍ノ口城を攻めるも なかなかに相手が手強いので城中に手の者を送り込みさい所元常を暗殺 1562年 直家33歳 浦上家は備中の三村家親と敵対するため 松田元輝の子・松田元賢に直家の娘を娶らせ また松田元賢の家臣である伊賀久隆と直家の娘を娶らせます。 1566年 直家37歳 三村家親と戦うも相手はなかなかの戦上手で手強かったので 直家の手の者である火縄銃の名手という兄弟を使って三村家親を火縄銃で暗殺 1567年 直家38歳 三村家親の子・元親が弔い合戦として直家に攻め込むも 三村氏よりも少数の兵で以ってこれを撃退 この戦いによって宇喜多氏の権力基盤が確立されていきます。 1568年 直家39歳 松田氏の家臣・宇垣与右衛門が「鹿と間違えた」という理由で 宇喜多方の手の者によって矢で射殺されます。 直家は松田氏家臣だった伊賀久隆を寝返らせ 伊賀久隆は松田家が篭る居城を攻め、松田元輝は戦死。 息子の松田元賢は討ち死にし、その妻である直家の娘は自害。 1570年 直家41歳 元は松田家家臣で直家の配下となっていた岡山城主・金光宗高が 毛利と内通しているとして、これを切腹。 これ以降岡山城は宇喜多氏の本拠地となります。 そして主家・浦上宗景に対して離反するも後に和睦。 宗景の子・宗辰に直家の娘を娶らせます。 1574年 直家45歳 主家である浦上家に対して再び離反します。 1575年 直家46歳 毛利氏と結んで三村氏を攻め、これを滅亡させます。 1577年 直家48歳 宗景の兄・政宗の遺児・久松丸が正当な後継者であるとして宗景を攻め、これを追放 完全に主家を乗っ取ります。 宗景の子・宗辰を毒殺 その後、久松丸も毒殺されたと言われています。 これぞ下克上です ̄▽ ̄ 1578年 直家49歳 浦上氏の遺臣達を徹底的に攻略していきます。 織田信長と敵対します。 1579年 直家50歳 毛利家と手を切って織田信長に臣従します。 1581年 直家52歳 直家の娘婿・伊賀久隆が急死します。 直家によって毒殺されたという話があります。 そしてこの年に病死します。 自分がこの方を暗殺大名と呼んでた事がありますが ここまでするともう圧巻ですね ̄▽ ̄ もう妻や娘がどうなろうとおかまいなしでございます。 直家の実の弟である忠家が 「兄の前に出る時は常に死を覚悟し、鎖帷子を着込んでいた」って 言ってたそうですからねぇ。 なんという人物なんでしょうね。 ちなみに直家の死後は息子の秀家が跡を継ぎます。 彼は秀吉から「秀」の字をもらい五大老の一人になるなど 豊臣家から厚遇され、後に西軍として戦い 敗れた後は切腹されてもおかしくない状況だったのですが 前田家や島津家の助命嘆願によって八丈島に流刑となったのは 助命に繋がったのは秀家が情の深い誠実な人間であったためと言われています。 意外な感じもしますが 直家の祖父・能家も情の深い誠実な方だと言われています。 だとすれば直家もまた情の深い誠実な方だったんじゃないでしょうかね。 ただ、彼の置かれた境遇が彼の性格を変質させていって 後に「謀将」と呼ばれるようになっていったんじゃないのかなって感じがします。 それに能家時代の家臣達が直家を見限らなかったのも 直家にそれ相応のカリスマ性があったからなんじゃないかなっていう気もするんですね。 個人的に宇喜多直家を北村一輝さんにやって欲しいです。 序盤はいい人って感じなんだけど 中盤以降はこれでもかっていうくらい悪〜〜〜〜〜い顔でやって欲しいですね。 これをすれば上杉景勝のイメージなんて 一発で吹っ飛ぶことでしょう ̄▽ ̄b 8時という時間帯には向いてないかもしれませんし 数字も取れるとは思いませんが(; ̄∀ ̄)ゞ 脚本は「銭ゲバ」の岡田惠和さんとか面白いかもしれません。 |
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キッド 2009/05/24 23:37 |
キッド様 |
ikasama4 2009/05/25 00:28 |
宇喜多直家公^^ |
はじめまして^0^ 2010/05/06 21:34 |
はじめまして^0^様 |
ikasama4 2010/05/06 22:12 |
はじめまして。 |
小早川統景 2010/05/23 18:09 |
小早川統景様 |
ikasama4 2010/05/23 23:40 |
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