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織田の脅威にさらされていた上杉家ではあったが 上杉家家中の結束は固まっていた。 それにはふたつの理由があった。 その理由のひとつが 武田の最後と、その武田に対する織田のなさりようであった。 あっというまに織田に寝返った武田の者達 武田の庇護にあった神社・仏閣の焼き討ち そしてあの武田狩りである。 あの武田が脆く崩れ去った 織田に寝返った者達は大半が処刑され その後、彼らは地元の方から卑怯者との誹りを受けた。 上杉家中の者達はそのような誹りを受ける事は恥辱であり また、それは謙信公が築き上げし「義」に泥を塗る事になる。 そのような恥辱を受けたくない。 寝返っても死を受けるならば戦って死んだ方がよい。 その思いが多くの上杉家中に渦巻いていた。 その理由のひとつが上杉景勝の存在であった。 以前は寡黙で何を考えているのか 分からないと揶揄された景勝ではあったのだが この危機にあっても寡黙である景勝の姿が この状況にあっても動じないという姿に見え 「御屋形様でよかった」という思いが家中にあった。 かつて家中が二分した上杉家ではあったが 織田信長という敵を前にして この戦いに上杉と我が名を残そうと思う家臣達は 「越後を守る」 その一念に集約されていた。 景勝は魚津城に 吉江宗信・中条景泰・竹俣慶綱・吉江景資・ 吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉らを派遣した 魚津城の軍勢、約3800に対して 一方、越中の織田軍は3月11日に1万5千の兵で魚津城へ進撃した。 序盤の戦いは上杉方が優勢であったが 昼夜を問わずに魚津城を攻め立てる織田方に 屈強なる上杉の兵とはいえ、疲労の色は隠せなかった。 4月23日 魚津城から景勝の下に文が届いた。 壁際まで押し寄せた敵方の軍勢は昼夜四十日に亘って攻めていたところ これまでなんとか守ってきましたが最早討死の覚悟を決め申した それは魚津城の武将の連名で記されていた。 この文を見るに魚津城の劣勢は明らかだった。 しかし、景勝は春日山から動かなかった。 正確には動けなかった。 その頃、織田信長が甲斐にいた。 甲斐に信長がいるという事は 信長が大軍をもって信濃、上野から侵攻するやもしれない。 その可能性がある限り、景勝が越後を留守にするという事は出来なかった。 今、できる事として景勝は上条政繁と斎藤朝信の両名に魚津城の支援を命じた。 それから間もなく、景勝は文をしたためていた。 書き終えると兼続に常陸の佐竹義重に送るように命じた。 それは次のような内容であったと言う。 こちらの事はご心配いりませぬ。 私はよい時代に生まれました。 最早武田は滅び、私は越後一国で日ノ本六十余州と戦います。 もし生き残る事ができれば古今無双の英雄となるでしょう 死んだとしても歴史に長く名を残すでしょう。 誠、武門の家に生まれた者として果報な事です。 5月4日、信長が京に向かったとの報せを受けて 景勝は魚津城を救援するために自ら五千の兵を率いて出兵した。 景勝は魚津城の者達と合流するつもりであった。 しかし、事態は深刻だった。 5月6日には織田軍の猛攻により 魚津城の二の丸は織田方によって占領され 入城は叶わぬものとなっていた。 その報せを聞いてすぐさま軍議が開かれた。 上杉方の武将は慌てふためいた。 「このままであれば いずれ魚津城は落ちるであろう。 そのような城をわざわざ御屋形様が危険を冒して救う程のものか。」 「魚津城に入れなければ、何のための救援か。」 そんな中で兼続が口を開く。 恐れながら、此度武田が崩壊した大きな理由は 内部の国人衆が次々と寝返ったためでございます。 そのきっかけを作ったのは 高天神城が危機の折に武田は諸国と敵対していたために 兵を送る余裕がなく 結果、高天神城を見殺しにしました。 そして、武田方の国人衆は武田に対する不信感を露にし そうして離反と相成りました。 なれば、武田の二の舞にならぬために ここは魚津城に兵を送るべきであると 考えまするが如何に? 誰も兼続の言葉に反論する者はいなかった。 それから上杉軍が魚津城の東側にある天神山城に入ったのは 5月19日の事だった。 一方の織田軍は魚津城を攻める事もなく ただ城を包囲するばかりで一向に動く気配がなかった。 景勝は天神山城から魚津城を眺めていた。 織田方の兵士は上杉がこの天神山城に来たとしってか 魚津城に対する攻撃は収まっていた。 一方、とはいえ援軍に来た上杉軍も何も出来ないままでいた。 ――――これが織田のやり方か。 あれから景勝は兼続らを通じて 織田の戦い方を探ってきた。 そこで彼らが多用したやり方が篭城戦であった。 大軍をもって城を取り囲み、補給路を遮断するや 後は時間をかけて将兵を追い詰めていく。 かつて織田方はひとつの城を落とすのに 篭城戦で1年10ヶ月もの時を費やしたという。 そのような事が出来るのも それだけの兵と物資があるから すなわち、それだけの銭があるからであろう。 それが分かっていながら 兵力・物資共に圧倒的な差を見せ付けられ 何も出来ない自分に歯がゆい思いをかみ締めていた。 それから間もなく景勝の下に 信濃の森長可、上野の滝川一益が 越後・春日山城に向けて兵を動かしているという報せが届いた。 それを受けて真っ先に越後・春日山城の撤退を意見したのは他ならぬ兼続だった。 こうして魚津城を守る者達は敵方に越後の地を踏ませぬため。 越後を守るために魚津城の将兵は戦っておるのです。 それが、此度の件で春日山城が敵方に攻め落とされでもしたら 我らの立つ瀬がございませぬ。 御屋形様がここまで来られた事で それ相応の大儀は果たせた事でしょう。 ここは越後を守るために御決断を。 景勝は兼続をしばらく睨みつけていたが その言を受け入れた。 それから景勝は魚津城の武将に 城を明け渡して降伏しても構わないとの文を送った。 5月27日 景勝ら一向は越後へ帰国した。 まもなく魚津城へ送った使者が戻ってきた。 「我らはこの地で織田勢に上杉の生き様、得とお見せ致します」 これ以降、景勝の眉間の皺は生涯に渡り消える事はなかった。 それから魚津城に立て籠もった 吉江宗信・吉江景資・中条景泰・竹俣慶綱・寺崎長資 蓼沼泰重・山本寺景長・安部政吉らは全員 自分の耳に穴を開けて、その耳と 自分の名を書いた木札を縛り付けるや一斉に自刃して果てた。 そうして魚津城が落城したのは6月3日。 それは本能寺の変の翌日の事であった―――――。 さて、今回は「魚津城の戦い」でございます。 この戦いに関してはWikipediaの「魚津城の戦い」を参考にしております。 また、佐竹に宛てた景勝の文に関しては こちらを参考にさせて頂きました↓ http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-224.html まぁ読んでみると分かると思いますが これは遺書みたいなもんですね。 それだけ、越後は追い詰められていたという事なんでしょうね。 ちなみに佐竹と上杉は かつて北条と戦うために同盟を結んでいた事がありましたので そうした経緯から文のやりとりをしていたのかもしれません。 また、直江信綱が殺害された時に 殺害された山崎秀仙は元は佐竹氏の家臣だそうですしね。 とりあえず、景勝はこの魚津城で 織田方の戦の仕方を垣間見たという感じで 適当に屁理屈をこねてみました(; ̄∀ ̄)ゞ 後、魚津城の援軍に関しては 武田方の滅亡のきっかけになったとも言われる 高天神城との対比にしてみました。 もう重ねるもんはガンガン重ねてます ̄▽ ̄ ついでに眉間の皺に関しては ふと「花の慶次」を思い出したので(; ̄∀ ̄)ゞ さて、そろそろネタが厳しいかなぁとか思う今日この頃ですが(; ̄∀ ̄)ゞ とりあえず、ネタが切れたときのために 「ドラマ化して欲しい歴史上の人物」って感じのコーナーでもやろうかなと。 最近は天下を獲った人物よりも そういう人物を支えた人物を描いた作品が増えてきているようですからね。 まぁ正直、何でもありって事かもしれんので(; ̄∀ ̄)ゞ とりあえず、今後は名前は知らないけど実はスゴイ人とか 名前は知られているけど、実はこんな事もしてましたみたいな そういう方をガッツリ紹介するのも面白いかなと思い 只今、何人かを調査中です。 まぁ人の数だけドラマがある訳ですからね。 多分、ネタに困ることはおそらくないと思います。 当面は戦国時代で進んでいく予定です ̄▽ ̄ |
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私、、今の大河 必ずしも全面否定 ことごとくコケにする気はないし、前回もけっこう観れたと個人的には思っています。 |
taira 2009/05/02 17:58 |
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taira 2009/05/02 18:00 |
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taira 2009/05/02 18:03 |
ikasama4様、おはようございます。 |
キッド 2009/05/03 09:44 |
taira様 |
ikasama4 2009/05/03 23:04 |
aira様 |
ikasama4 2009/05/03 23:05 |
taira様 |
ikasama4 2009/05/03 23:05 |
キッド様 |
ikasama4 2009/05/03 23:06 |
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